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2018.10.17 21:42|音楽鑑賞(主にオペラ)
 数年前BSのスカラ座特集で放映されて非常に興味深く見たビジュアルアーティスト、ウィリアム・ケントリッジ演出の「魔笛」(←当時の感想)が、とうとう新国立劇場にやってきて念願の実演鑑賞が叶いました。

 南アフリカ出身であるケントリッジの「魔笛」は解釈にひねりを効かしたいわゆる読み替え系ではありませんが、時代設定を作品成立当時かその少し後の18世紀末~19世紀初頭に移し、啓蒙主義やヨーロッパ列強による植民地支配といった当時の時事的テーマを前面に押し出しているのが特徴です。
 (いちおう)ヒーローにあたるタミーノは探検家で、このアフリカの地を訪れて間もなく、モノスタトスら現地人たちを従える白人支配階級のザラストロと夜の女王との対立に巻き込まれてしまったという構図のよう。

 さらに印象的なのが、物語の軸となるこの光=ザラストロと闇=夜の女王との対立・相関関係を、これまた18~9世紀にかけて急速な進歩をとげ、エンターテインメントとしても大流行した光学に置きかえて視覚化していることです。
 眼(脳に景色を映す装置なわけなのでこれも光学器械の一種)、幻灯機かカメラ・オブスクラらしき箱型装置、影絵によるアニメーション、黎明期の白黒映画、また現代でも大盛況のプロジェクション・マッピング等々さまざまな形態の光学モティーフが背景に登場し、物語に一役買います(人の眼マークに関しては、初見時はよくこのオペラとの関係が取り沙汰されるフリーメーソンのシンボルとして出したのかと思ったのですが、実演で観ると光学の象徴としての意味のほうがより強調されているようでした)。

 すなわち太陽神殿をつかさどり理性と学問を信奉するザラストロ一派の「光」を、旧態依然とした支配者である夜の女王を退けようとする「自然の光を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促す」(Wikipediaより)という意味の啓蒙思想になぞらえたうえで、現在に至るまでの光学の進歩と結び付けたわけです。私自身もともとこうした映画登場以前の光学ショーに興味があったことも手伝って、この着眼点は実に鋭くて面白いと感心せずにはいられませんでした。また光学だけでなく測量学や天文学に関する図像・道具のイメージもあちこちに散りばめられており、一瞬ながら天球儀のシルエットなどが出てくるのも探検記や冒険小説好きにはたまらないものがあります。

 ...と、ここまでは上でリンクした記事の内容をほぼ繰り返す形になってしまいましたが新国のHPに掲載されたケントリッジのインタビューを読むに、映像収録版を見ての私の解釈はおおむね演出の意図通りというか、少なくとも間違ってはなかったようです(自画自賛/笑)。

 さて改めて今回の上演の感想ですが、こうした情報量の多い演出は舞台全体を同時に視界に収められる実演鑑賞の方がやはり向いているとみえ、映像では見落としていた発見が少なからずありました。
 明暗を強調したモノトーン調の美術はメルヘンチックな王道タイプの「魔笛」とは異なるものの、CGの変化と迫力にも助けられ、このオペラを魅力的にするのに欠かせない幻想性を十分に保っています。中でも夜の女王の二つのアリアで、音楽の盛り上がりにつれてカール・フリードリヒ・シンケルの有名な舞台デザインを下敷きにした満天の星空が現れ、四方八方に軌道を広げてゆく場面のプロジェクションマッピングは圧巻。ザラストロの登場場面で映しだされる立ち並ぶ柱のイメージとも対照をなしており、両陣営の性格を視覚面でみごとに印象づけていました。

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 ただこの演出の欠点を一つ挙げるなら、タミーノの成長物語としての一面が全体の方向性の中で埋もれがちになってしまい、そのため彼が試練を克服しパミーナを獲得するラストに至っても観る側としてはさほど喜ばしい気分を共有できない点ではないでしょうか。
 もともとの台本からして個性が強いとはいえないこの役ですが、新時代のリーダーとしての性格がザラストロに一点集中しているようなこの演出では、いつにも増して自発的な意思に欠けるでくの棒に見えてしまいます。今回演じたダヴィスリムは癖のない声質でベテランらしくきちんとした歌唱とはいえ、それがかえって覇気と若々しさに欠ける雰囲気を醸し出していたのもまずかったかと(容姿も同じく...)同様に相手役のパミーナにしても、ケントリッジのインタビューでは「タミーノを導く重要な存在」と明言されているにもかかわらず、自己主張が弱く面白みに欠けるお姫様キャラから脱しきれないままの感が拭えなかったです。
 シーズンオープニングの初日にしてはカーテンコールの熱気が今一つだったのも、もしかするとこうした肩入れできる主人公の不在による不完全燃焼感?(ぴったりな表現が思いつかない)が響いたように思えてなりません。最後にケントリッジ本人が登場した時は客席も結構沸いてましたけど。

 その一方で、ザラストロに体現される"啓蒙的"リーダー像にしても百パーセント肯定的には描かれていません。植民地の支配階級として新しい思想の教化にあたろうとするこのザラストロの設定には、正義であるにせよどこか上から目線の押しつけがましさが潜んでいるとはスカラ座の映像を見た時から感じていましたが、それはむしろ演出家があえて強調した点であることが今回よく伝わってきました。
 インタビューでロベスピエールを引き合いに出しているのが分かりやすかったですが、演出の根幹である「光」と「闇」の対立と相関というテーマに近代ヨーロッパの発展とその影に潜む負の面が重ね合わされているなら、こうしたザラストロの二面性が強調されるのは必然というべきでしょう。だからこそラストでザラストロを引き継ぐであろうポジションに就くタミーノとパミーナには、何らかの形でその方針への疑問を呈させてもよかった気がするのですが...

 スカラ座と同じローランド・ベーア指揮の音楽面に関しては演奏も歌唱もいくぶん小ぢんまりとまとまってしまった感はあるものの、演出のイメージ通り若々しいカリスマ感に溢れてよく通る声のザラストロ、変に笑いを取ろうとしないのが好印象のパパゲーノ、コケティッシュな愛嬌を振りまいて舞台を明るくした侍女三人組とパパゲーナ(女性陣は衣装も華やかで可愛い)などを筆頭にみな健闘でした。

 
 ところで、この「魔笛」でフィーチャーされた光学装置による見世物を取り上げた「マジック・ランタン―光と影の映像史―」という展覧会が、ちょうど重なり合う時期に恵比寿の東京都写真美術館で開催されており(こちらは八月に始まっていたのでギリギリの駆け込み鑑賞でしたけど)、観劇の翌週こちらにも行ってきました。
 
 もう終了してしまいましたが美術館HPへのリンク→https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3083.html

 小規模ながら見応えのある内容で、展示物はマジックランタン(幻灯)の映写機とガラス絵のスライド(いくつかは実際の映像も見られます)、またそれが上演される様子を題材にした当時の絵画がほとんど。珍しいところでは一見ボードゲームかと思うような箱に入った影絵芝居のキットとか。
 受付のあるロビーにも幻灯機が設置してあり、そこでは撮影や手を触れたりも可能だったので記念に数枚撮ってきました。オペラに出てきたのもこれとそこそこ似た形状や大きさだったような↓

  IMG_0982.jpg  IMG_0985.jpg

 それ以外にも今度の「魔笛」を見たあとだといろいろ思い当たる内容の展示も多く、つくづく新国とコラボしなかったのが勿体ないと考えてしまったくらいでした(過去にその手の企画ってやったことあったっけ?)
 例えばオペラ冒頭でタミーノが追いかけられ気絶する「大蛇」、ケントリッジ演出ではこの蛇の正体は実は三人の侍女たちが例の映写機を使って見せた影絵なのですが、展示されていた絵画(一枚はリンク先のHPにも)中にも手影絵で動物の形を作って遊ぶそっくりの光景が見つかったり。
 なにしろ日本語で読める文献類さえ多いとはいえない前時代の光学アートという分野で、実際の道具類や映像に触れられるだけでもレアなのに、偶然にもそれを重要なモティーフとして組み込んだ舞台作品が近くの劇場で上演されていてほぼ同時期に両者を鑑賞できたのは本当に貴重な体験でした。マジックランタン以外にも多種多様で知れば知るほど興味の湧いてくるこのジャンル、いつかまた少し異なった紹介の仕方で見られる機会があればと思います。

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2018.01.29 23:39|音楽鑑賞(主にオペラ)
 明日から六日間ほど、三年ぶり三度めのパリに旅行して参ります。(何故いつもこの真冬の時期なのかは、まあ諸事情あってお察しください) ここ数日風邪気味だったせいか味覚がちょっと変で、あまり現地のグルメを堪能できそうにないのが残念ではありますが...。
 
 今度は前回行きそびれてしまったオペラも見たくて、バスティーユでヴェルディ「仮面舞踏会」、ガルニエでフィンランドの現代作曲家カイヤ・サーリアホの"Only the Sound Remains″と、いささか無茶とは思いながらも連夜でチケットを取ってしまいました。
 現代音楽系は敬遠してしまいがちな私ですが、なぜかサーリアホのオペラ第一作l'amour de loin(「遥かなる愛」)だけは例外的に好きな作品で、以前東京で上演された時にも聴きにいったほどなので(私のいた二階席のすぐ下にサーリアホ本人が座っていたのはいい思い出)、 新作である今度の作品もぜひと思ったのです。
 
 それに加え、この"Only the Sound Remains″の台本が、日本の能「経正」と「羽衣」、正確にはアメリカの詩人エズラ・パウンドによるその英訳に基づいたものであることも興味をひかれた理由でした。
 パウンドがキャリアの初期に能や俳句、漢詩といった東洋の文化にはまり、明治期の「お雇い外国人」フェノロサの遺稿をもとに能の英語訳に挑戦したあげく、中世のトリスタン伝説を夢幻能形式に翻案した戯曲まで書き上げた経緯については、以前一度だけ取り上げたことがありますが、およそ実際に上演されたという話を聞かない「トリスタン」と異なり、パウンド版能の舞台化がようやく実現したというわけです。

 その時の記事へのリンク→「幽霊のトリスタンとイゾルデ (パウンドの夢幻能風劇)

 ピーター・セラーズ演出によるこのオペラのプロダクションはパリ・オペラ座以外にも幾つかの劇場による共同製作で、そのうちアムステルダムとヘルシンキではすでに上演され、前者での公演を収録した映像も昨年末に発売済みです。なのでそのディスクを予習用に買ってはみたものの、舞台の様子を先に知ってしまいたくないということもあり、パウンドのテクスト(「経正」と「羽衣」をはじめとする能の翻訳は、上のリンク先記事でも紹介したClassic Noh Theatre of Japan という本で読むことができます)と照らし合わせながら音だけ聴いてみました。
 演奏についての感想は生で鑑賞するまで保留することとして、ここには主にリブレットの内容について感じた事柄を書いておこうと思います。

 BD・DVDのトレーラー

 最初に断っておきますと、パウンドによる能の英訳は、決して翻訳としての完成度が高いものとはいえず、極端な省略、意訳、さらには語学と文化に対する正確な知識が不足していたためと思われる間違い等もところどころに見受けられます。資料も充実しておらず、そもそもパウンド本人からして能楽を始めとする日本文化に直接触れた経験がなかったという当時の状況を考えれば致し方ないことではあるのですが。 
 
 なので今回、サーリアホがパウンドのテクストに手を加えることなく、「経正」「羽衣」ともに最初から最後までほぼそのままの形で用いたのは個人的にはむしろ意外に思えたほどでした(てっきり部分ごとに切りとったテクストをオペラ台本用に再構成したものと予想してました)。より能の原曲に忠実な形の訳を採用することもできたはずですが、作曲家としてパウンドオリジナルの文体が持つ独自の文学・音楽性を尊重した結果なのかもしれません。あくまで憶測にすぎないですけどね。

 形式は前半が「経正」、後半に「羽衣」という、共に演奏時間一時間弱ほどの二部構成。「地謡」的な役割をする数名のヴォーカルアンサンブルを除けば出演歌手は二人のみで、(本来の能における「シテ」である)「経正」のタイトルロールと「羽衣」の天人を人気カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキー、(同じく「ワキ」にあたる)僧都行慶と漁師白龍をバスバリトンのDavone Tinesがそれぞれ一人二役で演じます。

 元来のオリジナルである能のあらすじについては、ネットですぐに調べられることもあり詳しい説明は省きますが、「経正」は源氏との戦いで討死した平家の武将平経正の亡霊が、供養によってゆかりの寺の人々の前に束の間姿を現し、かつて愛用した琵琶の演奏と舞を披露して消えてゆく修羅物というジャンルに分類される曲。いっぽう「羽衣」は、漁師が下界に遊んでいた天女の羽衣を見つけて持ち帰ろうとするも、彼女の悲しげな様子に舞と引き換えに衣を返すことに同意し、再び羽衣をまとった天女は地上を祝福して舞いながら天へ去るという話です。(「羽衣」は舞台となった三保の松原の伝説としても有名だし、経正のエピソードは「平家物語」とかに出てきましたよね)

 このように本来まったく性格を異にする二つのストーリーの抱き合わせは、正直オリジナルの話にすでに親しんでいる日本人からすると、かえって疑問に感じかねないものかもしれません。
 もっとも、歴史的背景、あるいは登場人物の感情・境遇といった肉付け的要素を取り払ってみると、両者には「生身の人間とこの世ならぬ存在(亡霊/精霊)が束の間の遭遇を果たしたのち、超常的存在は芸術(舞/演奏)を披露して消える」という共通した骨子が存在しています。霊と人間の対話、現実と幻想との交錯という主題は能には珍しくないとはいえ、それが完全なる陰の「経正」、陽の「羽衣」という対比の構造の中で繰り返されるところに、これら二作を題材に選んだサーリアホの意図があるのではないかと予想してみました。パウンド自身、「経正」のストーリーを評して、そこに西洋のスピリチュアリズム文化(当時人気だった降霊会のような)と相通じる要素がみられるのがとりわけ興味深いと述べていることでもあり、「霊との邂逅」のテーマが舞台上でどのように演出されるかに注目したいところです。

 "Only the Sound Remains″というオペラ版のタイトルにしても、少なからずこの主題との共鳴を感じさせませすが、このフレーズは直接的には僧都が回向を受けておぼろげに姿を現した経正の霊を認めて発する、"It is strange! Tsunemasa! The figure was there and is gone, only the thin sound remains. The film of a dream, perhaps! It was a reward for this service.″という一節に基づいています。
 ちなみに原典の謡曲においては、「不思議やな経正の幽霊形は消え声は残って/なおも言葉を交わしけるぞや。よし夢なりとも現なりとも/法事の功力成就して/亡者に言葉を交わすことよ」というのがここに該当する部分のようです(参照:「能楽の淵」様)

 しかしひじょうに厳粛な曲調のなか、大体の固有名詞は日本語の音のままなのに、経正愛用の琵琶の名「青山」だけが「ブルーマウンテン」と英訳されていたのにはちょっと笑っちゃいました。西洋の観客にも言葉の意味を伝えたかったんでしょうが、これだとコーヒーの方が頭に浮かびかねないような(笑)

 出発間際にあわてて書き上げたせいでひどく読みづらい文章になってしまいましたが、上演の感想についてはまた帰国後にゆっくりアップしようと思います。

追記:現地に来て読み直したら、事もあろうに「経正」原曲からの引用箇所をうっかり勘違いしていたことに気づきました。お詫びの上訂正しておきます。

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タグ:オペラ感想

2015.11.15 07:11|音楽鑑賞(主にオペラ)
 最近はオペラやコンサートに行っても、感想を書くのにぐずぐずしているうちあっという間に半月経って結局アップせずじまいになってばかりで反省気味です。実は去年あたりから、ステージ上演のオペラなどは鑑賞前に演出・舞台の情報を知り過ぎたくないという理由からネットでの情報収集を控えるようにしていて、それで他のレビューを読む機会が少なくなったのもモチベーションに微妙に影響してるのかもしれませんが。

 これも危うく忘れるところでしたが、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場でシーズン毎の恒例になってきたライブ配信が今日11月15日上演のボーイト「メフィストーフェレ」で2015/16シーズンの初回を迎えます(日本では16日月曜の午前三時からというなんとも微妙な時間帯…。私は日曜でなく月曜が休みだからまだいいんですけど)。

配信サイト 

忘れないように今後の配信予定一覧も(オペラのみ)。現地時間の開始時刻とメインキャストだけ載せておきます。

2015/11/15 19:00~ ボーイト「メフィストーフェレ」 ウェルバー/シュワプ、 パーペ、カレヤ、オポライス
2015/12/12 19:00~ プロコフィエフ「炎の天使」 ユロフスキ/コスキー、Sozdateleva(ヘルリツィウスから変更。読み方が…)、ニキーティン
2016/3/19 19:00~ ヴェルディ「仮面舞踏会」 メータ/エラス、ベチャワ、ハルテロス、キーンリーサイド ペテアン
2016/6/26 18:00~ アレヴィ「ユダヤの女」 ド・ビリー/ビエイト、オポライス、アラーニャ、クルザック
2016/7/31 16:00~ ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ペトレンコ/ベッシュ、コッホ、カウフマン、ヤクビアク


詳しい情報はこちらです→Staatsoper.TV

 「メフィストフェレ」は音楽だけだといまひとつピンとこない作品とはいえ、ファウスト伝説に代表されるような中世ヨーロッパの錬金術や占星術やらが大好きな人間としてはどんな舞台と演出になっているのかに興味を惹かれます。キャストも豪華ですし。

 そういう意味ではもっと期待度大なのが次の「炎の天使」で、まさしくそんな暗黒時代のオカルト要素をいっしょくたにして詰め込んだような話。
 少女時代に出会ったという"炎の天使"なる存在を探し求めてさすらうヒロインはじめ、怪しげな占い師、異端審問官、こちらにもちらっと顔を出すファウスト&メフィストのコンビ、それに極めつけは実在のオカルティストアグリッパ・フォン・ネッテスハイムと、とにかく強烈なキャラクターばかりがぞろぞろ出てきます。
 マリインスキーの舞台を収録したLD(昔来日公演もあって話題になったとか)は持ってますが、プレーヤーを処分して見られなくなってから久しいので、またあれに負けない強烈な演出を期待したいところです。今度の上演でもアグリッパ役はマリインスキーの映像と同じガルーシンというのも何気に楽しみだったり。

 プログラムを見ていて気がついたのですが、今シーズンの配信演目は、「仮面舞踏会」を除けば上記の二作品に加え、続く「ユダヤの女」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と、それぞれ伊、露、仏、独と言語は違えど15~6世紀のドイツが舞台という点で共通した作品ばかりです。さすがにあとの二作にはそういうファンタジックな要素は一切ないですが、ある意味中世からルネサンスに移行する時代の光と闇を象徴するような内容といえるのではないでしょうか。

 ただし昔のドイツが舞台なのはあくまで台本の上のことであって、実際の上演がそれに忠実な時代設定になる保証はどこにもありません(汗) 現に今回のメフィストーフェレはこんな演出らしいです↓

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このシーンは何でもミュンヘンのオクトーバーフェストとか。上に書いたように演出のネタバレ回避のためあまり詳しくはわかりませんが、一つだけ読んだレビューだととにかくスペクタクル感たっぷりで視覚的にド派手な舞台らしいので、その点は十分楽しめそうです。
(「炎の天使」「ユダヤの女」あたりは演出家からしてもっと凄いことになりそうですが…。)

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2015.01.31 09:13|音楽鑑賞(主にオペラ)
 初演と2012年の再演に続き、三度目の鑑賞となるプロダクションです(同じ演出を三回見たのはこれが初めてかも)。
なお三年前のときの感想はこちら。3/20 新国立劇場 「さまよえるオランダ人」

 基本新国の再演ものにそう食指が動くほうではありませんが、歌手陣(特にゼンタとオランダ人)にかなり有名どころのワーグナー歌手が来るので毎回それ目当てでチケットを買ってしまっています。それに前回いまいちだった指揮にも期待度大だったんですが…

 しかし少なくともこの日に限っていえば、なんだか不発に終わった感のある上演だったように思います。およそ自然の荒々しさを感じさせない序曲に始まり、のっぺりした音作りからは海の香りも登場人物間のテンションも最後まで伝わってこないまま。合唱が相変わらず生き生きしていたのは救いでしたが、そちらもオケに乗れないためもあってかどことなくスケールダウンしていたような。

 飯守氏の指揮するワーグナー、つい昨年秋の「パルジファル」(実はこれも観に行きましたが、ちょうどパソコンが壊れてごたごたしている時でブログに感想を上げそびれてしまって )のときは精緻で素晴らしいと思ったんですが。この日の「オランダ人」は単なる担当オケの違いで片づけられないような、エネルギー不足とでもいった感じの味付けでちょっと心配になってしまいました。

 トーマス・ヨハネス・マイヤーの暗めな声と抑制のきいた表現は役にふさわしかった(これまで聞いたバリトン三人の中では一番"幽霊っぽい"オランダ人ではあったかと)けれど、私の席からだともう一回り分ほど声量がほしいところも。
 
 一方ゼンタのメルベートは存在感も十分で、歌自体は普通に上出来といっていいでしょう。ただこれはあくまで私個人の感覚なんですが、初演でこの役だったアニヤ・カンペの、彼女にとってのヒーロー的存在オランダ人に自己投影したい願望を一方的に叶えてしまったみたいな子供っぽい性格造形の印象深さ、また以前のバイロイトでの映像でメルベート自身が演じたかなり狂気じみて不気味なゼンタ(あの魔像…というか、肖像のインパクト含め)が強烈だったのもあって、仕方ないとはいえ新味とエキセントリックさの点で物足りなさが残ったのは残念です。

 その他の歌手陣ではラファウ・シヴェク(ダーラント)がいかにも海の男といった歯切れ良い歌い口でなかなか。ダニエレ・キルヒ(エリック)は演出のせいもあるのか今一つぱっとしませんでした。

 ただまあ好意的にとれば、初演時のゼンタがヒーローキャラとしてのオランダ人に憧れていたいまま普通の恋愛を拒んだ永遠の少女なら(ディズニーのアリスっぽい衣装や髪型がそう連想させたのかも)、今回のゼンタはむしろ「オランダ人」の伝説そのものに魅入られてしまった、精神年齢的には多少大人の女性といった雰囲気に映りました。そういった意味ではよりオランダ人への包容力を感じさせるメルベートの役作りも、最初見た時の刷り込みさえなければ+ついでにあの衣装がもっと似合ってさえいれば、決して悪くなかったとは思います。

 今回三度目にしてようやく気が付いたのは、この演出ではオランダ人の肖像画が一枚でなく十数枚か二十枚くらい?出てくるわけですが、中の数枚は幼いゼンタの作なのか明らかに子供が描いたと分かる絵だということでした。
 舞台美術のセンスのせいかどうもいい評判を聞かないプロダクションですが、こういう言われてみればゾッとするタイプの作り込みもあったりでそこまでひどいとは思わないんですよね。同じチームの魔弾の射手はアガーテのウェディングドレス可愛い位しか褒めるとこなかったけど…。

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2014.11.11 12:08|音楽鑑賞(主にオペラ)
 一つ前のエントリで書いたように、ハロウィン翌朝の初回という何とも言えないタイミングでの上映で見てきました。
 このエイドリアン・ノーブル演出「マクベス」はHD収録されるのは二度目で、前回のものは映画館には行きませんでしたが、WOWOWで放映された時の録画で視聴済みです(その時も題名役は同じジェリコ・ルチッチでした)。

 今度の再演の目玉、ネトレプコは映像込みで見るといっそうの迫力で、野心に火が点いてから精神崩壊して狂気にいたるまでの過程を何かに憑かれたような勢いで演じ切ったマクベス夫人は凄まじかったです。前とは別人のように重くなった声を大胆不敵にガンガン繰り出すさまはアクロバティックと言いたくなるほどで、それがまた役柄の危うさとシンクロして凄味を増しているよう。
 
 加えてマクベス夫妻の性格の違いを際立たせていたキャスティングの妙が面白く、華やかで常人離れした強烈さのあるネトレプコの夫人に対し、ビジュアルも前と比べていっそう枯れたルチッチ演じるマクベスは優柔不断で自信のない性格がそのまま外見に出ているようで好対照。どうも覇気に欠けて聞こえる(聞き苦しくはないのに)声のトーンや歌い口のおかげで、歌にはあまり感心した記憶のないルチッチでしたが、こと今回のマクベス役に限ってはそれもプラスに作用してぴったりのはまり役に感じました。
 
 とりわけ第二幕パーティーの場面で、亡霊の出現に取り乱すマクベスを、夫人が場を取り繕おうと強制的にダンスに引っ張り込むも、それどころでない彼は無様によろけてしまうあたりなど二人の対比がよく視覚化されていたし、ネトレプコとルチッチの演技も見事で印象に残ってます。(覚えているかぎりでは、ここでは前回のグレギーナ演じる夫人は夫と揃って動揺を隠し切れないという印象だったし、一幕幕切れでとる行動等、それ以外にも夫人の役作りがかなり異なる箇所がいくつかありました)

 出番の割には豪華な(こちらの記事の最後で触れたような事情があったからとか…あくまで噂ですが)配役のバンクォーとマクダフも主役夫妻に負けない存在感でした。芯のある声がこちらもマクベスと対照的な、剛毅な性格を示しているようなパーペの歌はドラマ前半の要所要所で効果を発揮していましたし、カレヤの切々と歌うアリアの表情付けも良かったです。
 ルイージの指揮する演奏がまたスリリングで、この作品全体にみなぎるダークなエネルギーがリズムにも音そのものからもしっかり感じ取れたのが個人的には何より賞賛したいポイント。それは合唱、とりわけ魔女に扮した女声陣にも共通していました。

 WOWOW鑑賞時には全体にどんより黒っぽい印象以外あまり記憶に残らず、可もなく不可もなくといった演出でしたが、今回はカメラワークや先に述べたような細部の演技がいくつか改善されたこと、またテレビ画面でなく映画館で見ると背景が中途半端な暗さでなく、時には本当に真っ暗闇に見えて雰囲気が出るのもあって、前回の収録版より芝居として多少面白く見られたという気はします。
 冒頭で魔女たちがいた森が夫妻の精神状態が破綻をきたすにつれて居城の空間に入り込み、現実を超自然の世界が浸食してゆく不気味さなどもコンセプトとしては悪くありません(ただ肝心の見せ方がどうもイマイチなのですが)。

 そういえば大学に入ったばかりの頃、シェークスピア入門みたいな授業で「真夏の夜の夢」の映像を見せられたことがあり、それもエイドリアン・ノーブルの演出だったと最近になって思い出しました。この「マクベス」でも使われていた空から下がる電灯と小さい男の子が出てくる冒頭シーンは覚えてるんですが、その後ほとんど記憶にないのはたぶん居眠りしてたんでしょう(私のシェークスピア知識なんてそんなもんです)

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2014.05.04 23:37|音楽鑑賞(主にオペラ)
 最終日に観に行ってからもう三週間以上なのに、すっかりアップするのが遅くなってしまいました。期待外れとかそういうのでは全然なく、その正反対だったんですけど。

 先日取り上げたアムステルダムの「キーテジ」と同じディミトリ・チェルニャコフ(今回の表記ではチェルニアコフ)が演出するこの「イーゴリ公」は、一面の真っ赤なケシの花畑に有名な「ポロヴェッツ人の踊り」の曲が流れる予告を見て以来、どんな舞台になるのかずっと楽しみにしていたものでした。
 
 本音を言うと「イーゴリ公」というオペラは、これまで私にとって音楽自体はともかく、物語についてはほとんど興味を持てなかった作品だったのです。場面ごとのつながりが希薄なせいか終始盛り上がりに欠けるし、登場人物にも際立った個性や魅力のようなものは感じられないし。そもそも作曲者ボロディンが決定稿を残さないまま終わってしまった未完の作品ですから、まとまりが悪いのもある程度仕方ないところがあるのかもしれませんが。
 
 ですが作品のそうした不完全さを逆手にとり、テーマも結末も大きく異なる、「異説イーゴリ公」とでも呼べるような新しい版を作り上げたチェルニャコフの手腕には意表をつかれたといってもいいくらいでした。それがドラマとしての元々の弱点を解消したわけではないにせよ、このオペラに付きまとっていたステレオタイプ的なイメージから踏み出しつつ現代に見合った視点を取り入れた今回の演出は評価されてよいと思います(もちろんいつも成功するとは限らないでしょうが)。

 「イーゴリ公」の話は歴史上の出来事に基づいており、チェルニャコフも「ルサルカ」の次回予告のときのインタビューでオペラの原作にあたる十二世紀の「イーゴリ軍記」なども読み込んで参考にしたと話していました。
 
 しかし今回の舞台では、セットや衣装は中世ロシアではなくわりと近代を思わせるデザイン。イーゴリは本来なら異民族のポロヴェッツ人との戦いにおもむき、負傷して捕虜になったあと(色々あってから)抑留されていた敵の野営地を脱出して故郷に帰りつくはずですが…、ここでは傷を負うところまでは同じでも、その後の出来事は昏睡状態で生死の境をさまよう彼の幻覚として描かれているのです。つまり予告に登場したあの一面のケシの花も現実の風景ではなかったということ(臨死体験でお花畑が見えるとかいう話があるのと一緒ですよね)。
 
 一方でその間にも戦火は広がり、イーゴリの治めていた町も荒れ果てます。終幕、やっと回復したイーゴリは同時に死の淵であった敵地から辛くもそこに生還し、幻想の世界から現実に引き戻される―というのがチェルニャコフ版のストーリーのよう。

 このように舞台が現実と幻想を行き来するのを説明するため、場面によってはかなり強引なカットを施したり、見ていて煩わしいタイプの映像やフラッシュ処理を多用したりと、いささか無理を感じる箇所が少なくなかったのは確かでした。また今回の版では二幕でイーゴリの出番がなく、代わりに彼が不在の地元で起きる混乱を扱った構成になっているのも、その間演出コンセプトの焦点がぼやけてしまうという点では難があります。

 ただこうした問題点にもかかわらず、全体としては妙にすんなり納得できてしまったのは(もちろん私個人の意見ですが)、同じ演出家の「キーテジ」を見たばかりだったことが大きいといえます。
 話が進むにつれ、この「戦争で荒廃した現実と、平和で美しい幻想の世界との対比」というテーマは「キーテジ」とそっくりなことに思い当たったのですが、二つのオペラがともに中世ロシア時代の異民族との戦いを背景とした作品であることを考えると似ているのは偶然ではないのかもしれません。後者(「イーゴリ公」の花畑、「キーテジ」のフェヴローニャと親しい人たちとの団欒)はともにその戦いの中で傷つき、死に瀕した主人公が夢見る幻の中にしか存在しないという点でも同じですし、ある意味チェルニャコフによるこれらの両演出は対をなすものと解釈できるのではないでしょうか。

 従来の版と違って綺麗に締めくくられるわけではないラストにも最初こそびっくりしましたが、それでも「キーテジ」と比べればずっと前向きな希望を感じさせる終わり方で、最後民衆に混じって瓦礫を片付け始めるイーゴリの姿からはチェルニャコフのこの作品に寄せる思いが伝わってくるようでした。「キーテジ」が戦争で滅ぼされた者たちの悲劇なら、この「イーゴリ公」は生き抜いてそこから再生を目指す人々のドラマとして構想されたもののように受け取れたのです。

 基本のトーンはシリアスながらも、コメディリリーフの二人組ポポフとオグノヴェンコ(この人チェルニャコフ演出に凄い高確率で出てきますね)の場面などはよい息抜きになっていたし、これもチェルニャコフの舞台に多い食べ物のシーン(←リアルにおいしそう)もちゃんとあって、全体を通して想像以上に楽しめる仕上がり。

 歌手陣は佇まいがこの役にはうってつけのイーゴリ公イルダール・アブドラザコフを筆頭に、ガリツキー公のミハイル・ペトレンコ、コンチャク汗のステファン・コツァンと主要な役をバス三人が占めるというレアなケースでしたが、同じスラヴ系のバスでも三者三様の個性があっていい聴き比べができました。
 最後の人歌い方が一本調子であんまり好きじゃないんですけど、今回は演出のおかげで後半の出番カットだったし悪くはなかったです。ペトレンコはこういうひねくれた系統のキャラがぴったり。そして何より、この舞台のコンセプトにふさわしい複雑なヒーロー像を歌唱と演技で示したアブドラザコフは大健闘したといえます。
 イーゴリの息子ウラジミール役は名前に覚えがあると思ったら、マリインスキー来日のときの演奏会形式パルジファルの題名役だった人。アブドラザコフと親子には見えませんでしたが、ワーグナーよりずっとこちらのほうが合ってました(イーゴリと一緒に帰ってこられなかったということは、あの息子は結局助からなかったんですね…)気品あるディーカとド迫力のラチヴェリシュヴィリの女声二人もパワフルな歌で適役。

 ジャナンドレア・ノセダの指揮からは演出を上回るほどのインパクトを受けはしなかったにせよ、これまでと違ったスコアに依りつつドラマを支えるという点で十分な役割を果たしていました。

 ところで真っ赤なケシの花が咲き乱れる光景って、あちらの人たちにとってはそれだけで異世界的、幻想的なイメージを抱かせるものなんでしょうか? ケシの原が囲む家に入って魅入られたようになり、ついにはあの世に誘われてしまう男が主人公の「罌粟の香り」という短篇小説(作者はイギリスの女流作家マージョリー・ボウエン)を読んで以来、その読後感がずーっと引っかかって離れないままで。
 おそらくギリシャ・ローマ神話ではケシの花が眠りの神ゆかりのものなのが由来かと思いますが、あの鮮やかに赤い花の雰囲気とはなんだか結び付けづらいです。

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

タグ:オペラ感想

2014.03.19 22:45|音楽鑑賞(主にオペラ)
 「死の都」はベルギーの古都ブリュージュを舞台に、亡き妻マリーへの想いに支配された主人公パウルが、マリーに生き写しの女性マリエッタとの出会いがきっかけで夢と現実とが交錯する不思議な体験をするという物語。
 
 作曲者コルンゴルトが父ユリウスと共作した台本は、ベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」に基づくものですが、最後の夢と現実の対比という要素、つまり出来事の大半が主人公の夢オチだったとわかる結末はオペラオリジナルです。

死都ブリュージュ (岩波文庫)死都ブリュージュ (岩波文庫)
(1988/03/16)
G. ローデンバック

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 オペラとは結末はじめ違いが少なくありませんが、みなぎる陰鬱さが一種の幻想性をかもし出す原作のテイストも好きです。(ついでながら上の表紙にあるローデンバックの肖像画が主人公のイメージにぴったりすぎて怖い。現物はオルセー美術館所蔵とのこと↓) 
 Lucien Levy-Dhurmer: Portrait de Georges Rodenbach 去年行ったときには見られなかった…。

 今回の演出(カスパー・ホルテン)の舞台でもブリュージュの町並みがパウルの部屋の窓から見えるのですが、それが異常な高さと角度から見下ろした光景なのが彼の歪んだ精神世界を象徴しているよう。ストーリーはすべてその部屋の中で展開し、それがパウルの空想(この演出での「夢オチ」は実際の夢というより、彼の異常な心理状態が見せた妄想に近いかと)であることを暗示します。
 三幕で平衡を失っていくパウルの精神に生じた亀裂をあらわすように、窓の外を通り過ぎていくはずの祭りの行列が街の背景からにょきにょき顔を出すのはなかなか強烈でした(でもこの場面で何より不気味なのは、神聖な儀式の行列を描写しているはずなのに異様におどろおどろしい音楽そのものに他なりませんが)。

 けれどホルテンの演出は、そうやって主人公の内面を心理分析的に見せようとするあまり空回りした感が否めないのでは?というのが正直なところです。
 
 上に書いた事柄についてはわかりやすいし効果も抜群だったのですが、問題は本来一人二役のマリー/マリエッタを、黙役の女優によるマリーと歌手が演じるマリエッタとに分担させたことです。
 台本ではパウルの亡妻マリーの出番は、現実においてマリエッタがいったん立ち去り、パウルがオペラのほぼ終盤あたりまで続く夢を見始めるところで幽霊として現れる1シーンしかありませんが、ここではマリエッタの登場以前からマリーがパウルの部屋に存在し、その後もほぼ常に姿を見せ続けています。マリーの幽霊が歌う場面では、マリー役が身ぶりで演技し、それにマリエッタ役のミーガン・ミラーがピットの中から声を当てる方法で処理していました。

 しかし私の理解力が足りないのかもしれませんが、始まってからしばらくはどういうことなのかいまいちよく分からず。気になって幕間に新国のサイトにアクセスしてみたところ、特設ブログのホルテンのインタビューに説明がありました。(最初から読んでおけって思われそうですけど、オペラ実演鑑賞のときは事前に演出のネタバレ見るのはなるべく避けたいんです。)

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/blog/?p=253
 
 上記記事によるとマリーが最初から舞台にいるのは、その死を受け入れられないパウルにとって彼女はいまだに生前と変わらない姿で存在し続けているからだとか。
 ただこの解釈、私としてはどうも釈然としないんですよねえ。パウルが妄想の中だけでも妻と以前通り幸福な生活を営んでいるなら、わざわざ外の世界でマリーの面影を追い求めたあげくにマリエッタを意識して家に呼ぶこともないだろうと。パウルの喪失感が観客にダイレクトに伝わりにくくなったのでは、彼に共感してほしいといったところで逆効果に思えます。
 
 何よりマリーとマリエッタが外見上瓜二つという設定がこれでは苦しく、パウルが時に二人を同一視して混乱するのはおかしいし、観るほうも先に女優さん演じる"マリー"のイメージを植えつけられてしまうと、それに余りそっくりとは言えないミラーのマリエッタがなんだか気の毒な感じでした。マリーとマリエッタの動かし方によってはもっと納得できたかもしれませんが…。

 メイン三人の外国勢は、飛びぬけてパンチのある人はいなかったにしてもそれぞれよく歌って釣り合いが取れていました。
 パウルのトルステン・ケルルは、最初のうちセーブ気味だったのか声が飛んでこないときがあったものの、あちこちで歌っている役だけあってペースの配分をよく踏まえ、聴かせどころはしっかり響かせていてさすが。
 演出面で損をしていたにもかかわらず、ミラーは陽気ながら内面の暗さをも抱えたマリエッタを好演し(ただ"マリー"としての声は私の席位置の関係かあまりきれいに聴こえてこなかった)、朴訥そうなフランクとピエロの悲哀を漂わせるフリッツの二役を歌い分けたバリトンのアントン・ケレミチェフも生真面目な声質と歌い口がどちらにもよく合っていました。

 日本人で固めた脇役も粒揃いで、マリエッタの仲間たちのアンサンブルは歌も見ているのも楽しく出番が少ないのが惜しいくらい。ブリギッタも完全にイメージどおりでした。

 前回新国に登場したときの「ルサルカ」が変に生ぬるい印象だったので、指揮のヤロスラフ・キズリンクには実はあまり期待していなかったのですが、今回はそのときよりも躍動感のある音楽作りで好印象。時にはきらびやか、時にはグロテスクな響きをオーケストラから見事に引き出していました。

 告白しますと私はホルテンの意図を知らないで見ていたあいだ、「実はマリーは死んでおらず、妻を神聖視するあまり生身の人間として接することができなくなったパウルが勝手に脳内で故人にして、ちょっと似た肉体派のマリエッタに浮気した」とかいう新解釈か?なんて考えていたのでした(さすがにこれではパウルがアレな人すぎる)

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

2014.03.13 23:57|音楽鑑賞(主にオペラ)
 司会のグラハムも「ヴィンテージ」とネタにしてたオールドスタイルの演出ですが、捻った解釈されがちなこのオペラではむしろ新鮮なぐらいで楽しめました。なにしろちゃんと水の精をやってるルサルカを見たのすら久しぶりな気がします(笑)

 そのルサルカを歌うルネ・フレミング、これが当たり役なのに異論はないものの、いろいろな面でさすがに年齢的に厳しいんじゃ?というところもちらほら。特に一幕の有名なアリアの辺りでは、本人もそれを意識してか発声も表現も作りすぎで伸びやかさに欠ける印象がありました。
 あともっと言うと、私的にはこういった話の自然の精って、関わる者に悪い影響をおよぼしかねない(この場合まさにそうなるわけですけど)一種の危険さを備えているイメージだったんですが、そういう面でも一幕のフレミングはちょっと違うかなという感じでした。一言でまとめると人間らしすぎ大人びすぎていた雰囲気。
 それでも三幕で行き場をなくしたルサルカの苦悩になると、そういった要素が逆にプラスに働いて良かったとも思うので一長一短でしょうか。

 ストレートにはまり役だと思ったのはイェジババ(魔女)のザジックと王子のベチャワ。ザジックはどちらもやりすぎない程度にコミカルでおどろおどろしかったし、ベチャワの王子は声はもちろん、女二人に振り回される優柔不断なダメ男でなく、魔性のものに魅入られてしまったやむにやまれなさを強調した役作りがルサルカとの対比にもなっていて良かったです。

 このオペラだとルサルカの父ということになっている水の精役のレリエも、ものすごく凄みのあるバスというのではないですが、全体通して揺るぎない低音が人間離れした存在感をかもし出していました。ライバルの外国王女を歌ったマギーは…まあそれなりの意地悪オーラで適役だったかと。
 ネゼ=セガンの指揮は全体のバランスのよさに加え、森の精三人組のシーンとか、一見なんでもない場面の継ぎ目のような箇所にも時折ぞくっとする息遣いを感じさせるあたりが耳に残りました。

 セットはスクリーンで見る限りでは、照明が暗いせいか植物や地面、それにとりわけ難しそうな水の質感も本物らしく経年劣化とかは気にならず。個人的には同じ演出チームの前の「指輪」四部作より好みです。
 ただ残念すぎるのは衣装のセンス! ルサルカや森の精たちのヒラヒラやスパンコールがごちゃごちゃくっついたドレスはどうも自然の化身にはふさわしくなくて似合ってません。最後ルサルカが王子の元に現れるとき、まとった白い布をうまく使って水面から霧の柱が立つように登場するシーンだけは絵のようで本当にきれいだったので、最初からああいうシンプルな衣装だったらよかったのにと思わずにいられなかったです。

それに魔女の秘薬作りのシーンでのきぐるみ大行進↓もリアルな背景と比べて浮きすぎ(インタビューで出てきた中の子たちは可愛かったけど)。

Rusalka0809_06_convert_20140310034002.jpg
しかしこの生物たちのサイズはどう見てもおかしい これも魔女の呪文のおかげ(!?)

 あと水の精が妙にどこかで見た気がすると思ったら「エンチャンテッド・アイランド」でドミンゴが演じたネプチューンでした。
 この東欧の水の精(ヴォドニク)ってチェコの作家チャペック(←オペラ的には「マクロプロス事件」の原作者)の「長い長いお医者さんの話」という本の訳ではたしか「河童」になっていたような。挿絵もあったはずですが、読んだのが小学校のときだったのでもうはっきり思い出せません。

長い長いお医者さんの話 (岩波少年文庫 (002))長い長いお医者さんの話 (岩波少年文庫 (002))
(2000/06/16)
カレル・チャペック

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↓なお五年前に上演されたときのヴォドニクはこんな姿だったもよう。

http://archives.metoperafamily.org/Imgs/Rusalka0809.13.jpg

河童…とはまた違うクリーチャーですね。しかし凄いメイク。今回のレリエはもっと二枚目の素顔に近かったです

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

タグ:オペラ感想

2014.03.08 14:22|音楽鑑賞(主にオペラ)
 二年前のアムステルダムでの「キーテジ」上演を収録したソフトがようやく発売されました。ブルーレイ・DVD両方で出ています。

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(2014/01/28)
Rimsky-Korsakov、Vaneev 他

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 「キーテジ」の市販映像としてはカリアリ/ボリショイのプロダクションに続き二つ目となるこのディミトリ・チェルニャコフ演出は、共同制作として今後バルセロナのリセウ劇場(来月)やスカラ座他でも上演予定のものです。
 二つを見比べて印象的だったのは、どちらの演出とも登場人物のほとんどを待ち受ける"死"への過程というテーマに焦点を当てた点では共通でも、その手法がまったく異なっていることでした。
 
 特典インタビューによれば「このオペラをおとぎ話ではなく、現代の世界にも通じるリアルさをもって」観客に提示したかったというチェルニャコフは、本来の筋書きにいくつか独自の解釈を加え、各場面初めに幕前のスクリーンに短い文を表示することでそれを説明します。

 それらを総合すると、この物語は「なんらかのカタストロフが迫って」おり、その影響で秩序が失われ荒廃のさなかにある世界の出来事という設定だとか(要はフィクションによくある「リアル世紀末」をご想像ください)

 大小二つあるキーテジの民やタタール人達といった「登場人物たちが属する集団」は 「その不安な状況の中、めいめいが選択した生き方」として読みかえられています。現実から目をそらそうと飲んだくれて乱痴気騒ぎにふける者(この演出での「小キーテジ」住人)や欲望のまま破壊や略奪行為に走る者(「タタール人」たち)がいる一方、一部の人々は少しでも人間らしく平穏に暮らせる場所を求めてシェルターに隠れ住んでいます。つまり本来の伝説では湖の奥地に隠された都の大キーテジは、ここではそうした人々の築いたシェルターに置き換わっているというわけです。
 
 もとは人里離れた森で鳥や獣に囲まれて育った設定のフェヴローニャにも、「世界を見舞った変化のあとそれまでの生活を捨て、弱者たちを助けて森に暮らすことを選んだ」女性という新たなキャラ付けがされていたり。動物たち(と、台本に書かれているだけで超絶影の薄い兄)のかわり、年取った男女と小さな男の子の三人が彼女の「家族」として出てきます。

 こうした終末もの的世界観、また森というより枯れ野原のような冒頭シーンは、時期的に震災後の日本をほのめかしたのか?とも勘ぐってしまったのですが、2001年マリインスキーでの新演出がこのプロダクションのオリジナルらしいので、おそらくはコンセプトもそこから引き継がれたものでしょう。もちろんチェルニャコフはロシア人だし、当時からチェルノブイリとかそういった辺りのことを意識した可能性はありそうですが。

 上記の演出はマリインスキーでもまだ現役とのことで、写真を借りてきて比べてみました。
(上)2001年マリインスキー版、(下)2012年ネーデルラントオペラ版。

kitez_500_auto.jpg

Kitesj_L_149_2.jpg
草が増えてリアルになってますけどw、まあ基本一緒ですね。

 ↓以下演出をラストまでネタばれしてるので、鑑賞予定の方はご注意ください。




 
 チェルニャコフの解釈は実に容赦なく、古来のキーテジ伝説の背後に潜む惨劇をあばき出してみせます。あくまでシビアなその視点からは奇蹟など起こり得るはずもなく、登場人物と観客双方に突きつけられるのは、圧倒的な暴力の前になすすべもなく滅ぼされるキーテジと虐殺されてゆく住民たちというありのままの現実。 
 
 ラスト、湖底で甦ったキーテジで晴れ晴れしく行われるはずのフェヴローニャと王子の結婚式も、すべて孤独に息を引き取ってゆく彼女の幻覚にすぎないかのよう(これはクプファー演出でもそうでしたが)。フェヴローニャが夢見る光景は本当にほのぼのしていて幸せそのものなのですが、結果としてそれが現実のむごさをより一層際立たせることになっています。

 暴力や流血の描写がこれまたオペラでは珍しいほどどぎつく(キャストが大量降板したらしいんですがこれが理由かも)、正直背景設定を改変のうえここまでやる必要があったのかというと疑問も残りますが、すでに荒廃しきって信仰にすがる心も失われた世界観というのは現代人にとっては一定の説得力ある解釈かもしれません。
 ここでの「キーテジ」の人々にとって、古くは精神的支柱だったであろう信仰や愛国心はもはや実質的な意味を持たず、だからこそ彼らが破滅の訪れを知ったとき、伝説のように街が神の力で救われることを願うでもなく、さっさと自決してしまうのはそれなりに腑に落ちる展開ではあったからです。

 同じく救いのないフェヴローニャの最後の場面にしても、彼女が真に望んでいたのはキーテジの栄華ではなく、身近な人々との(普通の世の中なら)ごく平凡な幸せだったのだということが痛いほど伝わってくるようで、フェヴローニャの人間性を実によく表した心を打つ描き方になっていると思えました。

 くっきりした音作りに緩急とメリハリの良さが際立つマルク・アルブレヒトの指揮は、舞台上とのケミストリーを絶やすことのない緊張感がラジオで演奏だけ聴いたときよりはるかに効果的でした。歌手陣もハードルの高い演技を見事にこなしているうえ、声楽的にもハイレベルで穴がありません。
 
 主演のスヴェトラーナ・イグナトヴィチは当初予定のソプラノ(オ○○○ス。この人、美人だけどなんだかどぎつくて苦手)の代役としての起用だったようですが、素朴な雰囲気がこの演出の親しみやすいフェヴローニャ像にぴったりで、これはむしろ変更がプラスに働いたのではというぐらい。長いモノローグの場面なども声を駆使していることを感じさせないぐらい自然に、フェヴローニャの純粋な人柄を演じきっています。
 
  フセヴォロド王子役マキシム・アクセノフと、その親衛隊長フョードルのアレクセイ・マルコフ(ここでは主従ではなく友人同士のような関係)は揃って見た目も若々しく、端正で張りのある声で魅力的なのが嬉しいです。
 あと特筆すべきは、人間の持つ弱さを凝縮したような、しかしそれゆえきわめて複雑な役どころのグリーシカ・クテルマを演じたジョン・ダスザックの、鋭いキャラクターテノールの声を生かした迫真の演技。演出と相まって、普通の人間でも極限状況に置かれたらああなりかねないという一種のリアリティさえ感じさせるのが効いています…。

 キャストチェンジが多かったとはいえ、その他男声陣もウラディミール・ヴァネーエフ(ユーリー公)、ゲンナジー・ベズズーベンコフ(グースリ弾き)、ウラディミール・オグノヴェンコ(ブルンダイ)などマリインスキーでもおなじみの顔ぶれ中心に固めた存在感ある面々が揃ってなかなかの豪華さでした。
(「グースリ弾き」がシンプソンズ風キャラのTシャツにギターを抱えたおじさんなのが妙にツボにはまってしまった)

テーマ:オペラ
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筆不精にも関わらずメモ帳代わりとして始めてしまったブログ。
小説や音楽の感想・紹介、時には猫や植物のことも。
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