2012.01.19 22:31|音楽鑑賞(主にオペラ)|
ほぼ十ヶ月ぶりのライブビューイング、今度はほかの用事とかぶらないようしっかり予定を立てて見てきました。
この新演出、メトで始まる前からネガキャンじゃないかと思うぐらい悪評だらけだったので覚悟してましたが、いざ鑑賞してみたら少なくとも眠気を催すような退屈さではなく、それなりに見所もありました。
時代を二十世紀に移し、科学者ファウストは核開発に関わりながらも原爆投下の惨状を目にして深く後悔し、自分の人生にも絶望してしまった様子。病気なのかやたらと咳き込んでおり、そのままでも長いことなさそうなのですが、今は無人となった研究室に戻り自殺を決意します。
・・・しかし、ふと過去の幻影がよみがえって未練にとらわれたとき、そこに現れたのは自分と契約さえすればもう一度青春を満喫させてやるという悪魔メフィストフェレスでした。その魔法で若返ったファウストは時間を遡り、青年だった頃の第一次大戦の時代に・・・という筋書き。
ちょっと時間旅行もののSFみたいで引き込まれる展開です(もっとも、それを言ったらゲーテの原作自体SFのはしりみたいな存在かもしれませんが)。
メフィストはタイやコサージュの色以外、若返ったファウストと揃いのスーツというドッペルゲンガーですが、演出家のマッカナフがOpera News誌のインタビューで説明していたところによると、「メフィストはファウストの鏡像であり、(ファウストの人格の)さまざまな側面のあらわれで、一種の良心でもあれば良心の反対でもある」とのこと。(かなりいい加減に訳してます。)単にジキルとハイドのような、同一人物の善と悪の面というわけではないようです。
要はファウストが人生を送る中で押さえ込んできた感情(快楽への欲望、殺人兵器を作ることへの良心の呵責など)が最期の瞬間たがが外れてあふれ、集合体となってもう一つの人格を形成したのがメフィストではないかと私は解釈しました。
そう考えると、ワルプルギスの夜の場でファウストと卓を囲む被爆者たちは、彼の罪悪感(≒メフィスト)が見せた悪夢の光景ということになるのでしょうか。しかし原子のシンボルが付いた魔法の杖を持っていることからして、メフィストは同時に彼のさらに深く隠された欲望の体現、つまり究極の力である核を自由に操る存在でもあるようですが。
ただ、こうした鋭い切り口はあっても、問題は恋愛パート中心のこのオペラだと、それがどうにも全体の流れの中で浮き上がってしまうこと。何しろグノー版のファウスト、若返ったあとはこれっぽっちも学者らしくないですから。最初に科学者としての自責の念が強調されているのに、一旦願いがかなったら後はマルグリートのことで頭がいっぱいなんてひどくないかと言いたくなります(ファウストの人格じゃなくてコンセプトの矛盾に)。
肝心の原爆のテーマも、一幕とワルプルギスのシーン以外は舞台装置の端っこに引き上げたまま文字通りの放置状態で(なのに被爆者たちが教会の場でマルグリートの前にも現れるのはなぜ?)、やっぱりこのモチーフだけで全幕もたせるというのは無理があった印象。
それ以外のところで見せ場がなかったわけではなく、たとえば金の子牛の歌でのダンスや兵士の合唱での写真撮影シーン、ワーグナーのお母さんらしき人を登場させて絡ませたりというのは音楽の流れにも合っていていいアイディアでした。全体としては(もしかしたらアメリカ人にとって非常にデリケートなテーマを扱ったせいかもしれませんが)、演出家にことさらカーテンコールでブーするほどの駄作ともいえないと思いましたが。
(あ、服装センスだけはブーイングもの。あんな真っ青スーツの人と一緒に歩きたくないです。)
パーペのメフィストはいかにも悪魔チックなキャラ造形だとどうも硬く感じてしまうんですが、どこか底知れない感じの今回のメフィスト像は、凄味がありながらコミックさの表現も自然で相当のはまり役。声もむらなく出ていて、今までこの役で聞いた中でもひときわ好調な歌でした。
ただ小芝居はラジオで聞いた初日のほうが幾分はっちゃけていたかも。ファウストに契約させるところで変なクスクス笑いしたり、三幕ラストの高笑いにヒューッという声を混ぜたり、面白いからHDの日にもやれば良かったのに。
去年の「ドン・カルロ」では時々声の薄さが気になったポプラフスカヤも、(でもどこの劇場だってあのホールの上の階よりましに聞こえるでしょう)映画館の音響なら問題なしでした。もともと声が暗いので、最初は天真爛漫な少女にしては影がありすぎる雰囲気なのですが、そのぶん後半の鬼気迫る演唱は強烈。
さて肝心の題名役カウフマンですが…実は私の耳にとって、この人の声というのはどうも心地よく響いてこないんです。困ったことにポプラフスカヤの場合と違い、映画館だと声質の苦手な部分がさらに増幅されて聞こえてくるようで、正直かなり閉口してしまいました。
もちろん全部の音域でそう感じたわけではなく、独特の暗い声もこの演出にはあっていて演技も説得力十分だったので、やっぱり一度実際に聞いてみたいとは思いますけどね。生だと印象が180度変わるかもしれないし。
ヴァランタン(バリトンっぽい声のカウフマンとブラウンが重唱になるとちょっと聞き分けづらかったですが)、ジーベル、マルトといった脇役の人たちもみんなうまかったです。
ネゼ=セガンの指揮はドライブ感があるというのか、作品のデモーニッシュな面を強調するようにオケをぐいぐい引っ張る力強いものでした。これまであまり得意でなかった「ファウスト」の演奏をこんなに堪能できるとは思ってもみませんでしたが、なんだか終わったあと生のワーグナー鑑賞よりも疲れてしまいました。映画サウンドが響きすぎなのと、ポプラフスカヤの壊れっぷりをはじめ歌手陣の濃い演技をたっぷりアップで見せられたのも一因かもしれませんが。
・・・あと館内で買った抹茶ラテ(というより甘くしただけの煎茶みたいな)がありえないくらいまずかった
これから飲み物は外のカフェでテイクアウトすることにしよう。
この新演出、メトで始まる前からネガキャンじゃないかと思うぐらい悪評だらけだったので覚悟してましたが、いざ鑑賞してみたら少なくとも眠気を催すような退屈さではなく、それなりに見所もありました。
時代を二十世紀に移し、科学者ファウストは核開発に関わりながらも原爆投下の惨状を目にして深く後悔し、自分の人生にも絶望してしまった様子。病気なのかやたらと咳き込んでおり、そのままでも長いことなさそうなのですが、今は無人となった研究室に戻り自殺を決意します。
・・・しかし、ふと過去の幻影がよみがえって未練にとらわれたとき、そこに現れたのは自分と契約さえすればもう一度青春を満喫させてやるという悪魔メフィストフェレスでした。その魔法で若返ったファウストは時間を遡り、青年だった頃の第一次大戦の時代に・・・という筋書き。
ちょっと時間旅行もののSFみたいで引き込まれる展開です(もっとも、それを言ったらゲーテの原作自体SFのはしりみたいな存在かもしれませんが)。
メフィストはタイやコサージュの色以外、若返ったファウストと揃いのスーツというドッペルゲンガーですが、演出家のマッカナフがOpera News誌のインタビューで説明していたところによると、「メフィストはファウストの鏡像であり、(ファウストの人格の)さまざまな側面のあらわれで、一種の良心でもあれば良心の反対でもある」とのこと。(かなりいい加減に訳してます。)単にジキルとハイドのような、同一人物の善と悪の面というわけではないようです。
要はファウストが人生を送る中で押さえ込んできた感情(快楽への欲望、殺人兵器を作ることへの良心の呵責など)が最期の瞬間たがが外れてあふれ、集合体となってもう一つの人格を形成したのがメフィストではないかと私は解釈しました。
そう考えると、ワルプルギスの夜の場でファウストと卓を囲む被爆者たちは、彼の罪悪感(≒メフィスト)が見せた悪夢の光景ということになるのでしょうか。しかし原子のシンボルが付いた魔法の杖を持っていることからして、メフィストは同時に彼のさらに深く隠された欲望の体現、つまり究極の力である核を自由に操る存在でもあるようですが。
ただ、こうした鋭い切り口はあっても、問題は恋愛パート中心のこのオペラだと、それがどうにも全体の流れの中で浮き上がってしまうこと。何しろグノー版のファウスト、若返ったあとはこれっぽっちも学者らしくないですから。最初に科学者としての自責の念が強調されているのに、一旦願いがかなったら後はマルグリートのことで頭がいっぱいなんてひどくないかと言いたくなります(ファウストの人格じゃなくてコンセプトの矛盾に)。
肝心の原爆のテーマも、一幕とワルプルギスのシーン以外は舞台装置の端っこに引き上げたまま文字通りの放置状態で(なのに被爆者たちが教会の場でマルグリートの前にも現れるのはなぜ?)、やっぱりこのモチーフだけで全幕もたせるというのは無理があった印象。
それ以外のところで見せ場がなかったわけではなく、たとえば金の子牛の歌でのダンスや兵士の合唱での写真撮影シーン、ワーグナーのお母さんらしき人を登場させて絡ませたりというのは音楽の流れにも合っていていいアイディアでした。全体としては(もしかしたらアメリカ人にとって非常にデリケートなテーマを扱ったせいかもしれませんが)、演出家にことさらカーテンコールでブーするほどの駄作ともいえないと思いましたが。
(あ、服装センスだけはブーイングもの。あんな真っ青スーツの人と一緒に歩きたくないです。)
パーペのメフィストはいかにも悪魔チックなキャラ造形だとどうも硬く感じてしまうんですが、どこか底知れない感じの今回のメフィスト像は、凄味がありながらコミックさの表現も自然で相当のはまり役。声もむらなく出ていて、今までこの役で聞いた中でもひときわ好調な歌でした。
ただ小芝居はラジオで聞いた初日のほうが幾分はっちゃけていたかも。ファウストに契約させるところで変なクスクス笑いしたり、三幕ラストの高笑いにヒューッという声を混ぜたり、面白いからHDの日にもやれば良かったのに。
去年の「ドン・カルロ」では時々声の薄さが気になったポプラフスカヤも、(でもどこの劇場だってあのホールの上の階よりましに聞こえるでしょう)映画館の音響なら問題なしでした。もともと声が暗いので、最初は天真爛漫な少女にしては影がありすぎる雰囲気なのですが、そのぶん後半の鬼気迫る演唱は強烈。
さて肝心の題名役カウフマンですが…実は私の耳にとって、この人の声というのはどうも心地よく響いてこないんです。困ったことにポプラフスカヤの場合と違い、映画館だと声質の苦手な部分がさらに増幅されて聞こえてくるようで、正直かなり閉口してしまいました。
もちろん全部の音域でそう感じたわけではなく、独特の暗い声もこの演出にはあっていて演技も説得力十分だったので、やっぱり一度実際に聞いてみたいとは思いますけどね。生だと印象が180度変わるかもしれないし。
ヴァランタン(バリトンっぽい声のカウフマンとブラウンが重唱になるとちょっと聞き分けづらかったですが)、ジーベル、マルトといった脇役の人たちもみんなうまかったです。
ネゼ=セガンの指揮はドライブ感があるというのか、作品のデモーニッシュな面を強調するようにオケをぐいぐい引っ張る力強いものでした。これまであまり得意でなかった「ファウスト」の演奏をこんなに堪能できるとは思ってもみませんでしたが、なんだか終わったあと生のワーグナー鑑賞よりも疲れてしまいました。映画サウンドが響きすぎなのと、ポプラフスカヤの壊れっぷりをはじめ歌手陣の濃い演技をたっぷりアップで見せられたのも一因かもしれませんが。
・・・あと館内で買った抹茶ラテ(というより甘くしただけの煎茶みたいな)がありえないくらいまずかった


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