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2014.03.27 01:47|Die Oper kocht
 久しぶりにDie Oper kochtの新メニューにチャレンジ。今回はソプラノのアニヤ・ハルテロスが紹介している、"Gute-Laune-Torte"(英語版ではGood-Mood-Cake)なるお菓子を作ってみました。簡単にいうと、果物を詰めて焼きあげてから上をチョコでコーティングしたタルトみたいなものです。

材料
生地用:
   薄力粉 200g
   砂糖 60g
   澄ましバター 125g
   アーモンドパウダー(好みでヘーゼルナッツパウダーでも)
   塩少々
※澄ましバターは分量よりちょっと多めのバターを溶かしてしばらく置き、沈殿物が分離したあとの上澄みを使います。

フィリング・トッピング用:
   リンゴ/オレンジ/バニラビーンズ(黒い莢のやつです)/オートミール/コアントロー/レモンバームの葉
   クーベルチュールチョコレート(ダーク)
    
 型はなるべくなら底の部分が外れるようになっているタイプの金属製の型がよさそうです。大きさについては特に指定がないのですが、家にあった底の直径20センチの型で生地が微量余るくらいだったのでその前後が目安かと(ギリギリだったり足りなくなるよりは少し余りが出たほうがぜったい安心)。

 まずボールにふるった粉類、砂糖、塩、澄ましバターを合わせてタルト生地を作ります。(←生地は「甘くなりすぎないように」とのこと。しかしアーモンドパウダーの分量が書いてない…まあカップ半分弱もあればいいでしょう)

 こね上げてまとめた生地を少しねかした後、二等分してその半分をのばし型にはりつけます。
 このあと、本では空焼きをせず生のままの生地にすぐフィリングを詰めて焼いてるのですが、温度設定が怪しいうちのボロオーブンでそうすると生焼けべっちゃりになりそうなので、いくぶん色がついて固くなる程度に一回火を通しておきました。

 次にフィリングを用意。リンゴ、オレンジの皮をむいて(オレンジは房から出し)小さくカットし、すりおろしたオレンジの皮、かるく一掴みほどのオートミール、みじん切りにしたレモンバームの葉を加えます。オートミールの存在意義がいまいち分からないんですけど、つなぎ用?
 バニラビーンズのさやはハサミか包丁で切り開き、中の黒い種(よく高級バニラアイスとかに入っているあれ)をかき取って他の具に混ぜあわせます。
 
 全部具が合わさったところで「お好みにあわせて」味付け。ちょうどハチミツがあったので、フルーツと相性よさそうだしそれで和えてみました。
 さらにコアントローを入れ…たいところですが、あいにく家に置いてないのでオレンジリキュールのホワイトキュラソーで代用することに(適当)ちなみに今回はレモンバームも手に入らなくてミント使用。そういえば前にもセージの代わりにミント使った気がしますが、まあ私は大体いつもこんなもんです(汗)
 
140322_1520~01
↑準備できたフィリングをタルト型に入れ、全体を均等にならします。
 
 その上を取っておいたもう半分の生地で覆い、ふちを隙間なくくっつけ合わせたら、あらかじめ180度に加熱しておいたオーブンで40分焼きます。
(クッキングシートやアルミホイルを敷いた上で生地を大きな円形にのばしてから、シートに広げたままの状態でひっくり返してタルト型にかぶせ、はみ出したぶんを切り落とす方法がいちばん失敗しません。)

140322_1531~01

 オーブンから取り出したタルトの表面が熱いうちに砕いたダークチョコレートをのせ、溶けてきたらナイフなどでのばして全体にコーティング。

140322_1615~01

さらにその上を一房ごとにカットしたオレンジとミントの葉っぱでデコレーションして完成です。
本の写真を真似るつもりがオレンジがちょっと足りなくて貧相な感じになってしまったので、自家製オレンジピール(国産オレンジの皮の薄切りを水にさらして苦味を取ってからハチミツと砂糖で煮たもの)を追加してごまかしました。

140322_1702~01

ホームメード風ながらなかなかお洒落で見栄えがするのもいいですね。

140322_1714~02

 しばらく冷ましてから試食。とにかくいい香りのうえ、材料それぞれが(いくつか代用ですが)適度に自己主張しあった複雑な味のおいしさです! 中がフルーツなので、見た目よりさっぱりした味わいであまりくどくありません。
 
 ただフィリングの味付け、もっと甘いぐらいでも上のビターチョコと釣り合いが取れてよかったかも。タルト生地のほうはレシピの指示通り甘さ控えめというか、もうちょい塩を利かせて中の甘さを引き立てるようにする、というあたりが今後の課題。
 それから表面のチョコがあまりコチコチに冷えてしまうと食感がよくないので、冷蔵庫でなく室温で保存して早めに食べきること  ←前もって湯せんで溶かしておいて、少し生クリームを入れるとかすれば改善可能でしょうか?

 キャンセルのやたら多いハルテロス、確実に生で聴きたかったらミュンヘンあたりに行くしかなさそうですが、バイエルンはよく出演作をWEBストリーミングで配信してくれるのでその点は幸運かも。(そういえば来シーズンの配信予定はいつごろ発表だったか… ハルテロスは新演出の「アラベラ」はじめいろいろ出るようです。)

テーマ:手作りお菓子
ジャンル:グルメ

2014.03.19 22:45|音楽鑑賞(主にオペラ)
 「死の都」はベルギーの古都ブリュージュを舞台に、亡き妻マリーへの想いに支配された主人公パウルが、マリーに生き写しの女性マリエッタとの出会いがきっかけで夢と現実とが交錯する不思議な体験をするという物語。
 
 作曲者コルンゴルトが父ユリウスと共作した台本は、ベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」に基づくものですが、最後の夢と現実の対比という要素、つまり出来事の大半が主人公の夢オチだったとわかる結末はオペラオリジナルです。

死都ブリュージュ (岩波文庫)死都ブリュージュ (岩波文庫)
(1988/03/16)
G. ローデンバック

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 オペラとは結末はじめ違いが少なくありませんが、みなぎる陰鬱さが一種の幻想性をかもし出す原作のテイストも好きです。(ついでながら上の表紙にあるローデンバックの肖像画が主人公のイメージにぴったりすぎて怖い。現物はオルセー美術館所蔵とのこと↓) 
 Lucien Levy-Dhurmer: Portrait de Georges Rodenbach 去年行ったときには見られなかった…。

 今回の演出(カスパー・ホルテン)の舞台でもブリュージュの町並みがパウルの部屋の窓から見えるのですが、それが異常な高さと角度から見下ろした光景なのが彼の歪んだ精神世界を象徴しているよう。ストーリーはすべてその部屋の中で展開し、それがパウルの空想(この演出での「夢オチ」は実際の夢というより、彼の異常な心理状態が見せた妄想に近いかと)であることを暗示します。
 三幕で平衡を失っていくパウルの精神に生じた亀裂をあらわすように、窓の外を通り過ぎていくはずの祭りの行列が街の背景からにょきにょき顔を出すのはなかなか強烈でした(でもこの場面で何より不気味なのは、神聖な儀式の行列を描写しているはずなのに異様におどろおどろしい音楽そのものに他なりませんが)。

 けれどホルテンの演出は、そうやって主人公の内面を心理分析的に見せようとするあまり空回りした感が否めないのでは?というのが正直なところです。
 
 上に書いた事柄についてはわかりやすいし効果も抜群だったのですが、問題は本来一人二役のマリー/マリエッタを、黙役の女優によるマリーと歌手が演じるマリエッタとに分担させたことです。
 台本ではパウルの亡妻マリーの出番は、現実においてマリエッタがいったん立ち去り、パウルがオペラのほぼ終盤あたりまで続く夢を見始めるところで幽霊として現れる1シーンしかありませんが、ここではマリエッタの登場以前からマリーがパウルの部屋に存在し、その後もほぼ常に姿を見せ続けています。マリーの幽霊が歌う場面では、マリー役が身ぶりで演技し、それにマリエッタ役のミーガン・ミラーがピットの中から声を当てる方法で処理していました。

 しかし私の理解力が足りないのかもしれませんが、始まってからしばらくはどういうことなのかいまいちよく分からず。気になって幕間に新国のサイトにアクセスしてみたところ、特設ブログのホルテンのインタビューに説明がありました。(最初から読んでおけって思われそうですけど、オペラ実演鑑賞のときは事前に演出のネタバレ見るのはなるべく避けたいんです。)

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/blog/?p=253
 
 上記記事によるとマリーが最初から舞台にいるのは、その死を受け入れられないパウルにとって彼女はいまだに生前と変わらない姿で存在し続けているからだとか。
 ただこの解釈、私としてはどうも釈然としないんですよねえ。パウルが妄想の中だけでも妻と以前通り幸福な生活を営んでいるなら、わざわざ外の世界でマリーの面影を追い求めたあげくにマリエッタを意識して家に呼ぶこともないだろうと。パウルの喪失感が観客にダイレクトに伝わりにくくなったのでは、彼に共感してほしいといったところで逆効果に思えます。
 
 何よりマリーとマリエッタが外見上瓜二つという設定がこれでは苦しく、パウルが時に二人を同一視して混乱するのはおかしいし、観るほうも先に女優さん演じる"マリー"のイメージを植えつけられてしまうと、それに余りそっくりとは言えないミラーのマリエッタがなんだか気の毒な感じでした。マリーとマリエッタの動かし方によってはもっと納得できたかもしれませんが…。

 メイン三人の外国勢は、飛びぬけてパンチのある人はいなかったにしてもそれぞれよく歌って釣り合いが取れていました。
 パウルのトルステン・ケルルは、最初のうちセーブ気味だったのか声が飛んでこないときがあったものの、あちこちで歌っている役だけあってペースの配分をよく踏まえ、聴かせどころはしっかり響かせていてさすが。
 演出面で損をしていたにもかかわらず、ミラーは陽気ながら内面の暗さをも抱えたマリエッタを好演し(ただ"マリー"としての声は私の席位置の関係かあまりきれいに聴こえてこなかった)、朴訥そうなフランクとピエロの悲哀を漂わせるフリッツの二役を歌い分けたバリトンのアントン・ケレミチェフも生真面目な声質と歌い口がどちらにもよく合っていました。

 日本人で固めた脇役も粒揃いで、マリエッタの仲間たちのアンサンブルは歌も見ているのも楽しく出番が少ないのが惜しいくらい。ブリギッタも完全にイメージどおりでした。

 前回新国に登場したときの「ルサルカ」が変に生ぬるい印象だったので、指揮のヤロスラフ・キズリンクには実はあまり期待していなかったのですが、今回はそのときよりも躍動感のある音楽作りで好印象。時にはきらびやか、時にはグロテスクな響きをオーケストラから見事に引き出していました。

 告白しますと私はホルテンの意図を知らないで見ていたあいだ、「実はマリーは死んでおらず、妻を神聖視するあまり生身の人間として接することができなくなったパウルが勝手に脳内で故人にして、ちょっと似た肉体派のマリエッタに浮気した」とかいう新解釈か?なんて考えていたのでした(さすがにこれではパウルがアレな人すぎる)

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

2014.03.13 23:57|音楽鑑賞(主にオペラ)
 司会のグラハムも「ヴィンテージ」とネタにしてたオールドスタイルの演出ですが、捻った解釈されがちなこのオペラではむしろ新鮮なぐらいで楽しめました。なにしろちゃんと水の精をやってるルサルカを見たのすら久しぶりな気がします(笑)

 そのルサルカを歌うルネ・フレミング、これが当たり役なのに異論はないものの、いろいろな面でさすがに年齢的に厳しいんじゃ?というところもちらほら。特に一幕の有名なアリアの辺りでは、本人もそれを意識してか発声も表現も作りすぎで伸びやかさに欠ける印象がありました。
 あともっと言うと、私的にはこういった話の自然の精って、関わる者に悪い影響をおよぼしかねない(この場合まさにそうなるわけですけど)一種の危険さを備えているイメージだったんですが、そういう面でも一幕のフレミングはちょっと違うかなという感じでした。一言でまとめると人間らしすぎ大人びすぎていた雰囲気。
 それでも三幕で行き場をなくしたルサルカの苦悩になると、そういった要素が逆にプラスに働いて良かったとも思うので一長一短でしょうか。

 ストレートにはまり役だと思ったのはイェジババ(魔女)のザジックと王子のベチャワ。ザジックはどちらもやりすぎない程度にコミカルでおどろおどろしかったし、ベチャワの王子は声はもちろん、女二人に振り回される優柔不断なダメ男でなく、魔性のものに魅入られてしまったやむにやまれなさを強調した役作りがルサルカとの対比にもなっていて良かったです。

 このオペラだとルサルカの父ということになっている水の精役のレリエも、ものすごく凄みのあるバスというのではないですが、全体通して揺るぎない低音が人間離れした存在感をかもし出していました。ライバルの外国王女を歌ったマギーは…まあそれなりの意地悪オーラで適役だったかと。
 ネゼ=セガンの指揮は全体のバランスのよさに加え、森の精三人組のシーンとか、一見なんでもない場面の継ぎ目のような箇所にも時折ぞくっとする息遣いを感じさせるあたりが耳に残りました。

 セットはスクリーンで見る限りでは、照明が暗いせいか植物や地面、それにとりわけ難しそうな水の質感も本物らしく経年劣化とかは気にならず。個人的には同じ演出チームの前の「指輪」四部作より好みです。
 ただ残念すぎるのは衣装のセンス! ルサルカや森の精たちのヒラヒラやスパンコールがごちゃごちゃくっついたドレスはどうも自然の化身にはふさわしくなくて似合ってません。最後ルサルカが王子の元に現れるとき、まとった白い布をうまく使って水面から霧の柱が立つように登場するシーンだけは絵のようで本当にきれいだったので、最初からああいうシンプルな衣装だったらよかったのにと思わずにいられなかったです。

それに魔女の秘薬作りのシーンでのきぐるみ大行進↓もリアルな背景と比べて浮きすぎ(インタビューで出てきた中の子たちは可愛かったけど)。

Rusalka0809_06_convert_20140310034002.jpg
しかしこの生物たちのサイズはどう見てもおかしい これも魔女の呪文のおかげ(!?)

 あと水の精が妙にどこかで見た気がすると思ったら「エンチャンテッド・アイランド」でドミンゴが演じたネプチューンでした。
 この東欧の水の精(ヴォドニク)ってチェコの作家チャペック(←オペラ的には「マクロプロス事件」の原作者)の「長い長いお医者さんの話」という本の訳ではたしか「河童」になっていたような。挿絵もあったはずですが、読んだのが小学校のときだったのでもうはっきり思い出せません。

長い長いお医者さんの話 (岩波少年文庫 (002))長い長いお医者さんの話 (岩波少年文庫 (002))
(2000/06/16)
カレル・チャペック

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↓なお五年前に上演されたときのヴォドニクはこんな姿だったもよう。

http://archives.metoperafamily.org/Imgs/Rusalka0809.13.jpg

河童…とはまた違うクリーチャーですね。しかし凄いメイク。今回のレリエはもっと二枚目の素顔に近かったです

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

タグ:オペラ感想

2014.03.08 14:22|音楽鑑賞(主にオペラ)
 二年前のアムステルダムでの「キーテジ」上演を収録したソフトがようやく発売されました。ブルーレイ・DVD両方で出ています。

Rimsky-Korsakov: Legend of Invisible City of [Blu-ray] [Import]Rimsky-Korsakov: Legend of Invisible City of [Blu-ray] [Import]
(2014/01/28)
Rimsky-Korsakov、Vaneev 他

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 「キーテジ」の市販映像としてはカリアリ/ボリショイのプロダクションに続き二つ目となるこのディミトリ・チェルニャコフ演出は、共同制作として今後バルセロナのリセウ劇場(来月)やスカラ座他でも上演予定のものです。
 二つを見比べて印象的だったのは、どちらの演出とも登場人物のほとんどを待ち受ける"死"への過程というテーマに焦点を当てた点では共通でも、その手法がまったく異なっていることでした。
 
 特典インタビューによれば「このオペラをおとぎ話ではなく、現代の世界にも通じるリアルさをもって」観客に提示したかったというチェルニャコフは、本来の筋書きにいくつか独自の解釈を加え、各場面初めに幕前のスクリーンに短い文を表示することでそれを説明します。

 それらを総合すると、この物語は「なんらかのカタストロフが迫って」おり、その影響で秩序が失われ荒廃のさなかにある世界の出来事という設定だとか(要はフィクションによくある「リアル世紀末」をご想像ください)

 大小二つあるキーテジの民やタタール人達といった「登場人物たちが属する集団」は 「その不安な状況の中、めいめいが選択した生き方」として読みかえられています。現実から目をそらそうと飲んだくれて乱痴気騒ぎにふける者(この演出での「小キーテジ」住人)や欲望のまま破壊や略奪行為に走る者(「タタール人」たち)がいる一方、一部の人々は少しでも人間らしく平穏に暮らせる場所を求めてシェルターに隠れ住んでいます。つまり本来の伝説では湖の奥地に隠された都の大キーテジは、ここではそうした人々の築いたシェルターに置き換わっているというわけです。
 
 もとは人里離れた森で鳥や獣に囲まれて育った設定のフェヴローニャにも、「世界を見舞った変化のあとそれまでの生活を捨て、弱者たちを助けて森に暮らすことを選んだ」女性という新たなキャラ付けがされていたり。動物たち(と、台本に書かれているだけで超絶影の薄い兄)のかわり、年取った男女と小さな男の子の三人が彼女の「家族」として出てきます。

 こうした終末もの的世界観、また森というより枯れ野原のような冒頭シーンは、時期的に震災後の日本をほのめかしたのか?とも勘ぐってしまったのですが、2001年マリインスキーでの新演出がこのプロダクションのオリジナルらしいので、おそらくはコンセプトもそこから引き継がれたものでしょう。もちろんチェルニャコフはロシア人だし、当時からチェルノブイリとかそういった辺りのことを意識した可能性はありそうですが。

 上記の演出はマリインスキーでもまだ現役とのことで、写真を借りてきて比べてみました。
(上)2001年マリインスキー版、(下)2012年ネーデルラントオペラ版。

kitez_500_auto.jpg

Kitesj_L_149_2.jpg
草が増えてリアルになってますけどw、まあ基本一緒ですね。

 ↓以下演出をラストまでネタばれしてるので、鑑賞予定の方はご注意ください。




 
 チェルニャコフの解釈は実に容赦なく、古来のキーテジ伝説の背後に潜む惨劇をあばき出してみせます。あくまでシビアなその視点からは奇蹟など起こり得るはずもなく、登場人物と観客双方に突きつけられるのは、圧倒的な暴力の前になすすべもなく滅ぼされるキーテジと虐殺されてゆく住民たちというありのままの現実。 
 
 ラスト、湖底で甦ったキーテジで晴れ晴れしく行われるはずのフェヴローニャと王子の結婚式も、すべて孤独に息を引き取ってゆく彼女の幻覚にすぎないかのよう(これはクプファー演出でもそうでしたが)。フェヴローニャが夢見る光景は本当にほのぼのしていて幸せそのものなのですが、結果としてそれが現実のむごさをより一層際立たせることになっています。

 暴力や流血の描写がこれまたオペラでは珍しいほどどぎつく(キャストが大量降板したらしいんですがこれが理由かも)、正直背景設定を改変のうえここまでやる必要があったのかというと疑問も残りますが、すでに荒廃しきって信仰にすがる心も失われた世界観というのは現代人にとっては一定の説得力ある解釈かもしれません。
 ここでの「キーテジ」の人々にとって、古くは精神的支柱だったであろう信仰や愛国心はもはや実質的な意味を持たず、だからこそ彼らが破滅の訪れを知ったとき、伝説のように街が神の力で救われることを願うでもなく、さっさと自決してしまうのはそれなりに腑に落ちる展開ではあったからです。

 同じく救いのないフェヴローニャの最後の場面にしても、彼女が真に望んでいたのはキーテジの栄華ではなく、身近な人々との(普通の世の中なら)ごく平凡な幸せだったのだということが痛いほど伝わってくるようで、フェヴローニャの人間性を実によく表した心を打つ描き方になっていると思えました。

 くっきりした音作りに緩急とメリハリの良さが際立つマルク・アルブレヒトの指揮は、舞台上とのケミストリーを絶やすことのない緊張感がラジオで演奏だけ聴いたときよりはるかに効果的でした。歌手陣もハードルの高い演技を見事にこなしているうえ、声楽的にもハイレベルで穴がありません。
 
 主演のスヴェトラーナ・イグナトヴィチは当初予定のソプラノ(オ○○○ス。この人、美人だけどなんだかどぎつくて苦手)の代役としての起用だったようですが、素朴な雰囲気がこの演出の親しみやすいフェヴローニャ像にぴったりで、これはむしろ変更がプラスに働いたのではというぐらい。長いモノローグの場面なども声を駆使していることを感じさせないぐらい自然に、フェヴローニャの純粋な人柄を演じきっています。
 
  フセヴォロド王子役マキシム・アクセノフと、その親衛隊長フョードルのアレクセイ・マルコフ(ここでは主従ではなく友人同士のような関係)は揃って見た目も若々しく、端正で張りのある声で魅力的なのが嬉しいです。
 あと特筆すべきは、人間の持つ弱さを凝縮したような、しかしそれゆえきわめて複雑な役どころのグリーシカ・クテルマを演じたジョン・ダスザックの、鋭いキャラクターテノールの声を生かした迫真の演技。演出と相まって、普通の人間でも極限状況に置かれたらああなりかねないという一種のリアリティさえ感じさせるのが効いています…。

 キャストチェンジが多かったとはいえ、その他男声陣もウラディミール・ヴァネーエフ(ユーリー公)、ゲンナジー・ベズズーベンコフ(グースリ弾き)、ウラディミール・オグノヴェンコ(ブルンダイ)などマリインスキーでもおなじみの顔ぶれ中心に固めた存在感ある面々が揃ってなかなかの豪華さでした。
(「グースリ弾き」がシンプソンズ風キャラのTシャツにギターを抱えたおじさんなのが妙にツボにはまってしまった)

テーマ:オペラ
ジャンル:音楽

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筆不精にも関わらずメモ帳代わりとして始めてしまったブログ。
小説や音楽の感想・紹介、時には猫や植物のことも。
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