前回書き忘れた気がしますが、今回もまだ十月九日日曜日の続きぶんから。ラヴェンナを発つ前夜と出発直前の朝のできごとです。
"Pages From a Young Girl's Journal"(抄訳)
「Come Gentili (なんて優雅な方たち)!」 エミリアは二人の騎手が消えていった方をうっとりと見やって嘆声をあげました。「優雅」という形容はバイロン卿はもとより、シェリー氏にもあまり相応しくないとは思いつつも、私には(たとえ適切なイタリア語が浮かんだとしても)とりたてて返答のしようもなくて、今度ははばかりもせず高らかに歌いだしたエミリアとまた連れだって歩きだしました。たしなめる気もしませんでしたが、彼女は実際いい声をしてたのです。
そして松林を抜けると、眼前に広がっていたのは紺碧のアドリア海!この時が私がアドリア海を眺めた最初だったけれど(ヴェニスの潟なんて海としては問題外ですもの)、アドリア海が地中海とつながったその一部であるからには、これでもう「地中海を見てきたのよ」と自分に言いきかせても構わないというわけね。そう、尊ぶべきジョンソン博士曰く、あらゆる旅人が目指すというあの地中海をです。それはあたかも、黄金の光に包まれ、贖いの血をあふれさせる聖杯とついに邂逅を果たしたときの忘我の心地とでもいえばいいのでしょうか。輝き渦巻く海原に心を奪われ、私はしばしその場に立ち尽くしていたのでした。
けれど今晩はもうこれ以上続けられそうにありません。おかしなことに視界だけはありありと冴えわたっているのに、全身が尋常でない倦怠感にとらわれてどうしようもないの。見れば満月過ぎの月影のもと、シーツとナイトガウンは鮮紅色に染め上げられてしまったかのよう。イタリアの月のいつだって巨大で赤々しいこと。
ああ、私の親友、宝石、そして守り主!次に貴方に会えるのはいつになるの?
十月十日
彼と一緒の夢を見たわ。忘れてしまう前にぜひともここに書かなければと思ったほど甘美ですばらしい夢! でもいざペンを取ってみると、書き留められるようなことなんてほとんど何も残ってはいはしませんでした。ただ記憶にあるのは、彼がこの首すじと胸元に残していった、最高に優しく、それでいて鋭い接吻の感触。そうしてはるか彼方の世界のこととしか思えないような、この上なく不思議な物語りを耳元に囁きかけていったことだけ。
今まさに夜が明けそめようとして、空は一面赤と深紅に彩られています。つい最近までの雨模様なんてあとかたもなく晴れ渡った空からは、これまた赤々とした太陽が、秋が深まり冬になる前に早く暖かい南に渡っていくんだと呼びかけてでもいるかのよう。南に向かうですって! たしかに今日はこれからリミニに向かって発つのよ。ええ、渡り鳥でもない私の行き先はせいぜいリミニ止まりなのです。笑うしかないわよね。
そして朝焼けに照らし出されて見た私の肌は、またあの時と同じように血に濡れていました。でも今度は私にも分かっていたわ。それは彼の抱擁のとき、それに応え歓び迎えるしるしとして、私の血管からほとばしり出てきたものなのだと。どうして私ときたら、あの優しくて鋭い抱擁がもたらす至福を、たったの一度でも忘れることができたりしたんでしょう?
目が覚めたときにはひどく喉が渇いていたけれど、いつもながらこの部屋には飲み水などあるはずもありません。仕方なく取ってこようと起き上がったものの、きっと幸福のあまり気が遠くなっていたのに違いないわ、そのまままたベッドに崩れ落ちてしまったのです。それでも少しするといくらかは気力も戻って、何とか部屋のドアをそろそろと開くことができました。
するとそこで何を――いえ、誰を見たと思って? 薄明りの廊下には他でもないあのコンテッシーナが、黒っぽい色の寝間着姿で無言で佇んでいたのよ。そういえば舞踏会の夜以来、ずっと彼女の姿を見かけていなかった気がします。
きっと向こうにも相応にやましい理由があったのではないかしら。私に気づいたコンテッシーナは、その場で石にでもなったように立ちすくんでしまいました。とはいえその時の私といったら、上に羽織りものをするのも忘れてナイトガウン一枚きりという、彼女のそれに輪をかけて見苦しいなりをしていたのは確かだわ。そればかりか酷い怪我でもしたみたいに血まみれときては、あの子が仰天したのも無理はなかったかもしれませんが。
怖がらないでと言おうとして(なんといっても、私たちはそう変わらない年頃の女の子同士なんですから)私が一歩前に踏みだすやいなや、彼女は押し殺した叫び声をあげ、まるで魔物の女王に出くわしでもしたかのように一目散に逃げていきました。それでもよほど人に聞かれたくなかったのか、ほとんど物音らしい物音をさせないまま。
私はただ、親愛の情、それにこんな朝早くに思いがけずもばったり出会った記念のしるしとして、小さなコンテッシーナをこの腕に抱き寄せてキスしたかっただけなのに。彼女のみせた幼稚さに(おずおずした子供かと思えば、次の瞬間には世間ずれした年増女になってみせるのがこの国の女の人たちですけどね)一瞬面食らわずにはいられなかったけれど、その時またもひどい眩暈に襲われ、壁にもたれかかって身体を支えなくてはなりませんでした。やがてようやく立ち直ると、ほこりっぽい窓から差し込んできた朝日に照らされて目に入ったのは、壁の漆喰にくっきり残った私の朱に染まった手形だったわ。
でも私は何とか見とがめられずに少しばかりの水を取ってくると(このお屋敷では、召使が大部屋で寝ずの番をつとめる習わしなどというのはもう廃れてしまったのでしょう)、できるだけの血を洗い落としておきました。少なくとも自分の部屋の中のは。それより外のぶんには、あいにく水も私の体力も十分ではなかったのよ。実際のところ、私にはそんな些細なことなんかもうどうでもよくなっていたのですが。******
なんだかここに来ていきなりホラーチックになりましたね(笑)
次に向かう街のリミニはラヴェンナからアドリア海沿いに少し南下した位置にあります。これまでヴェネツィアからパドヴァ、フェラーラと経由してきているので、主人公一家の旅程はイタリア半島の長靴のうしろ側をほぼ海沿いに下っていく感じでしょう。一体何の目的でどこまで行くつもりなのかはさっぱり分かりませんが。
リミニというと、私はせいぜいダンテの「神曲」に出てくるフランチェスカ・ダ・リミニ伝説の舞台という程度の知識しかないんですけど、思い出してみればあの話のヒロインのフランチェスカはラヴェンナ出身でしたね。以前ライブビューイングでやったザンドナーイのオペラ版あらすじとか記事にしたのにすっかり忘れてました。
(そういえばライブビューイングのイオランタ&青髭公の城の感想がまだだった…。実は書きかけの記事がトラブルで消えちゃってそのままなんです。演出が細部まで凝っていて面白かったので、アンコール上映があったらもう一度しっかり見直して書いた方がいいかも。)
テーマ:本の紹介
ジャンル:学問・文化・芸術