2018.01.29 23:39|音楽鑑賞(主にオペラ)|
明日から六日間ほど、三年ぶり三度めのパリに旅行して参ります。(何故いつもこの真冬の時期なのかは、まあ諸事情あってお察しください) ここ数日風邪気味だったせいか味覚がちょっと変で、あまり現地のグルメを堪能できそうにないのが残念ではありますが...。
今度は前回行きそびれてしまったオペラも見たくて、バスティーユでヴェルディ「仮面舞踏会」、ガルニエでフィンランドの現代作曲家カイヤ・サーリアホの"Only the Sound Remains″と、いささか無茶とは思いながらも連夜でチケットを取ってしまいました。
現代音楽系は敬遠してしまいがちな私ですが、なぜかサーリアホのオペラ第一作l'amour de loin(「遥かなる愛」)だけは例外的に好きな作品で、以前東京で上演された時にも聴きにいったほどなので(私のいた二階席のすぐ下にサーリアホ本人が座っていたのはいい思い出)、 新作である今度の作品もぜひと思ったのです。
それに加え、この"Only the Sound Remains″の台本が、日本の能「経正」と「羽衣」、正確にはアメリカの詩人エズラ・パウンドによるその英訳に基づいたものであることも興味をひかれた理由でした。
パウンドがキャリアの初期に能や俳句、漢詩といった東洋の文化にはまり、明治期の「お雇い外国人」フェノロサの遺稿をもとに能の英語訳に挑戦したあげく、中世のトリスタン伝説を夢幻能形式に翻案した戯曲まで書き上げた経緯については、以前一度だけ取り上げたことがありますが、およそ実際に上演されたという話を聞かない「トリスタン」と異なり、パウンド版能の舞台化がようやく実現したというわけです。
その時の記事へのリンク→「幽霊のトリスタンとイゾルデ (パウンドの夢幻能風劇)」
ピーター・セラーズ演出によるこのオペラのプロダクションはパリ・オペラ座以外にも幾つかの劇場による共同製作で、そのうちアムステルダムとヘルシンキではすでに上演され、前者での公演を収録した映像も昨年末に発売済みです。なのでそのディスクを予習用に買ってはみたものの、舞台の様子を先に知ってしまいたくないということもあり、パウンドのテクスト(「経正」と「羽衣」をはじめとする能の翻訳は、上のリンク先記事でも紹介したClassic Noh Theatre of Japan という本で読むことができます)と照らし合わせながら音だけ聴いてみました。
演奏についての感想は生で鑑賞するまで保留することとして、ここには主にリブレットの内容について感じた事柄を書いておこうと思います。
BD・DVDのトレーラー
最初に断っておきますと、パウンドによる能の英訳は、決して翻訳としての完成度が高いものとはいえず、極端な省略、意訳、さらには語学と文化に対する正確な知識が不足していたためと思われる間違い等もところどころに見受けられます。資料も充実しておらず、そもそもパウンド本人からして能楽を始めとする日本文化に直接触れた経験がなかったという当時の状況を考えれば致し方ないことではあるのですが。
なので今回、サーリアホがパウンドのテクストに手を加えることなく、「経正」「羽衣」ともに最初から最後までほぼそのままの形で用いたのは個人的にはむしろ意外に思えたほどでした(てっきり部分ごとに切りとったテクストをオペラ台本用に再構成したものと予想してました)。より能の原曲に忠実な形の訳を採用することもできたはずですが、作曲家としてパウンドオリジナルの文体が持つ独自の文学・音楽性を尊重した結果なのかもしれません。あくまで憶測にすぎないですけどね。
形式は前半が「経正」、後半に「羽衣」という、共に演奏時間一時間弱ほどの二部構成。「地謡」的な役割をする数名のヴォーカルアンサンブルを除けば出演歌手は二人のみで、(本来の能における「シテ」である)「経正」のタイトルロールと「羽衣」の天人を人気カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキー、(同じく「ワキ」にあたる)僧都行慶と漁師白龍をバスバリトンのDavone Tinesがそれぞれ一人二役で演じます。
元来のオリジナルである能のあらすじについては、ネットですぐに調べられることもあり詳しい説明は省きますが、「経正」は源氏との戦いで討死した平家の武将平経正の亡霊が、供養によってゆかりの寺の人々の前に束の間姿を現し、かつて愛用した琵琶の演奏と舞を披露して消えてゆく修羅物というジャンルに分類される曲。いっぽう「羽衣」は、漁師が下界に遊んでいた天女の羽衣を見つけて持ち帰ろうとするも、彼女の悲しげな様子に舞と引き換えに衣を返すことに同意し、再び羽衣をまとった天女は地上を祝福して舞いながら天へ去るという話です。(「羽衣」は舞台となった三保の松原の伝説としても有名だし、経正のエピソードは「平家物語」とかに出てきましたよね)
このように本来まったく性格を異にする二つのストーリーの抱き合わせは、正直オリジナルの話にすでに親しんでいる日本人からすると、かえって疑問に感じかねないものかもしれません。
もっとも、歴史的背景、あるいは登場人物の感情・境遇といった肉付け的要素を取り払ってみると、両者には「生身の人間とこの世ならぬ存在(亡霊/精霊)が束の間の遭遇を果たしたのち、超常的存在は芸術(舞/演奏)を披露して消える」という共通した骨子が存在しています。霊と人間の対話、現実と幻想との交錯という主題は能には珍しくないとはいえ、それが完全なる陰の「経正」、陽の「羽衣」という対比の構造の中で繰り返されるところに、これら二作を題材に選んだサーリアホの意図があるのではないかと予想してみました。パウンド自身、「経正」のストーリーを評して、そこに西洋のスピリチュアリズム文化(当時人気だった降霊会のような)と相通じる要素がみられるのがとりわけ興味深いと述べていることでもあり、「霊との邂逅」のテーマが舞台上でどのように演出されるかに注目したいところです。
"Only the Sound Remains″というオペラ版のタイトルにしても、少なからずこの主題との共鳴を感じさせませすが、このフレーズは直接的には僧都が回向を受けておぼろげに姿を現した経正の霊を認めて発する、"It is strange! Tsunemasa! The figure was there and is gone, only the thin sound remains. The film of a dream, perhaps! It was a reward for this service.″という一節に基づいています。
ちなみに原典の謡曲においては、「不思議やな経正の幽霊形は消え声は残って/なおも言葉を交わしけるぞや。よし夢なりとも現なりとも/法事の功力成就して/亡者に言葉を交わすことよ」というのがここに該当する部分のようです(参照:「能楽の淵」様)
しかしひじょうに厳粛な曲調のなか、大体の固有名詞は日本語の音のままなのに、経正愛用の琵琶の名「青山」だけが「ブルーマウンテン」と英訳されていたのにはちょっと笑っちゃいました。西洋の観客にも言葉の意味を伝えたかったんでしょうが、これだとコーヒーの方が頭に浮かびかねないような(笑)
出発間際にあわてて書き上げたせいでひどく読みづらい文章になってしまいましたが、上演の感想についてはまた帰国後にゆっくりアップしようと思います。
追記:現地に来て読み直したら、事もあろうに「経正」原曲からの引用箇所をうっかり勘違いしていたことに気づきました。お詫びの上訂正しておきます。
今度は前回行きそびれてしまったオペラも見たくて、バスティーユでヴェルディ「仮面舞踏会」、ガルニエでフィンランドの現代作曲家カイヤ・サーリアホの"Only the Sound Remains″と、いささか無茶とは思いながらも連夜でチケットを取ってしまいました。
現代音楽系は敬遠してしまいがちな私ですが、なぜかサーリアホのオペラ第一作l'amour de loin(「遥かなる愛」)だけは例外的に好きな作品で、以前東京で上演された時にも聴きにいったほどなので(私のいた二階席のすぐ下にサーリアホ本人が座っていたのはいい思い出)、 新作である今度の作品もぜひと思ったのです。
それに加え、この"Only the Sound Remains″の台本が、日本の能「経正」と「羽衣」、正確にはアメリカの詩人エズラ・パウンドによるその英訳に基づいたものであることも興味をひかれた理由でした。
パウンドがキャリアの初期に能や俳句、漢詩といった東洋の文化にはまり、明治期の「お雇い外国人」フェノロサの遺稿をもとに能の英語訳に挑戦したあげく、中世のトリスタン伝説を夢幻能形式に翻案した戯曲まで書き上げた経緯については、以前一度だけ取り上げたことがありますが、およそ実際に上演されたという話を聞かない「トリスタン」と異なり、パウンド版能の舞台化がようやく実現したというわけです。
その時の記事へのリンク→「幽霊のトリスタンとイゾルデ (パウンドの夢幻能風劇)」
ピーター・セラーズ演出によるこのオペラのプロダクションはパリ・オペラ座以外にも幾つかの劇場による共同製作で、そのうちアムステルダムとヘルシンキではすでに上演され、前者での公演を収録した映像も昨年末に発売済みです。なのでそのディスクを予習用に買ってはみたものの、舞台の様子を先に知ってしまいたくないということもあり、パウンドのテクスト(「経正」と「羽衣」をはじめとする能の翻訳は、上のリンク先記事でも紹介したClassic Noh Theatre of Japan という本で読むことができます)と照らし合わせながら音だけ聴いてみました。
演奏についての感想は生で鑑賞するまで保留することとして、ここには主にリブレットの内容について感じた事柄を書いておこうと思います。
BD・DVDのトレーラー
最初に断っておきますと、パウンドによる能の英訳は、決して翻訳としての完成度が高いものとはいえず、極端な省略、意訳、さらには語学と文化に対する正確な知識が不足していたためと思われる間違い等もところどころに見受けられます。資料も充実しておらず、そもそもパウンド本人からして能楽を始めとする日本文化に直接触れた経験がなかったという当時の状況を考えれば致し方ないことではあるのですが。
なので今回、サーリアホがパウンドのテクストに手を加えることなく、「経正」「羽衣」ともに最初から最後までほぼそのままの形で用いたのは個人的にはむしろ意外に思えたほどでした(てっきり部分ごとに切りとったテクストをオペラ台本用に再構成したものと予想してました)。より能の原曲に忠実な形の訳を採用することもできたはずですが、作曲家としてパウンドオリジナルの文体が持つ独自の文学・音楽性を尊重した結果なのかもしれません。あくまで憶測にすぎないですけどね。
形式は前半が「経正」、後半に「羽衣」という、共に演奏時間一時間弱ほどの二部構成。「地謡」的な役割をする数名のヴォーカルアンサンブルを除けば出演歌手は二人のみで、(本来の能における「シテ」である)「経正」のタイトルロールと「羽衣」の天人を人気カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキー、(同じく「ワキ」にあたる)僧都行慶と漁師白龍をバスバリトンのDavone Tinesがそれぞれ一人二役で演じます。
元来のオリジナルである能のあらすじについては、ネットですぐに調べられることもあり詳しい説明は省きますが、「経正」は源氏との戦いで討死した平家の武将平経正の亡霊が、供養によってゆかりの寺の人々の前に束の間姿を現し、かつて愛用した琵琶の演奏と舞を披露して消えてゆく修羅物というジャンルに分類される曲。いっぽう「羽衣」は、漁師が下界に遊んでいた天女の羽衣を見つけて持ち帰ろうとするも、彼女の悲しげな様子に舞と引き換えに衣を返すことに同意し、再び羽衣をまとった天女は地上を祝福して舞いながら天へ去るという話です。(「羽衣」は舞台となった三保の松原の伝説としても有名だし、経正のエピソードは「平家物語」とかに出てきましたよね)
このように本来まったく性格を異にする二つのストーリーの抱き合わせは、正直オリジナルの話にすでに親しんでいる日本人からすると、かえって疑問に感じかねないものかもしれません。
もっとも、歴史的背景、あるいは登場人物の感情・境遇といった肉付け的要素を取り払ってみると、両者には「生身の人間とこの世ならぬ存在(亡霊/精霊)が束の間の遭遇を果たしたのち、超常的存在は芸術(舞/演奏)を披露して消える」という共通した骨子が存在しています。霊と人間の対話、現実と幻想との交錯という主題は能には珍しくないとはいえ、それが完全なる陰の「経正」、陽の「羽衣」という対比の構造の中で繰り返されるところに、これら二作を題材に選んだサーリアホの意図があるのではないかと予想してみました。パウンド自身、「経正」のストーリーを評して、そこに西洋のスピリチュアリズム文化(当時人気だった降霊会のような)と相通じる要素がみられるのがとりわけ興味深いと述べていることでもあり、「霊との邂逅」のテーマが舞台上でどのように演出されるかに注目したいところです。
"Only the Sound Remains″というオペラ版のタイトルにしても、少なからずこの主題との共鳴を感じさせませすが、このフレーズは直接的には僧都が回向を受けておぼろげに姿を現した経正の霊を認めて発する、"It is strange! Tsunemasa! The figure was there and is gone, only the thin sound remains. The film of a dream, perhaps! It was a reward for this service.″という一節に基づいています。
ちなみに原典の謡曲においては、「不思議やな経正の幽霊形は消え声は残って/なおも言葉を交わしけるぞや。よし夢なりとも現なりとも/法事の功力成就して/亡者に言葉を交わすことよ」というのがここに該当する部分のようです(参照:「能楽の淵」様)
しかしひじょうに厳粛な曲調のなか、大体の固有名詞は日本語の音のままなのに、経正愛用の琵琶の名「青山」だけが「ブルーマウンテン」と英訳されていたのにはちょっと笑っちゃいました。西洋の観客にも言葉の意味を伝えたかったんでしょうが、これだとコーヒーの方が頭に浮かびかねないような(笑)
出発間際にあわてて書き上げたせいでひどく読みづらい文章になってしまいましたが、上演の感想についてはまた帰国後にゆっくりアップしようと思います。
追記:現地に来て読み直したら、事もあろうに「経正」原曲からの引用箇所をうっかり勘違いしていたことに気づきました。お詫びの上訂正しておきます。
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