R・ゼラズニイの幽霊船物語 "And I Only Am Escaped to Tell Thee" (我ただ汝に告げんとて逃れ来れり)
2013.09.13 17:46|怪奇幻想文学いろいろ|
先日「さまよえるオランダ人」がらみで軽くふれた幽霊船物語のアンソロジー、The Ghost Ship: Stories of the Phantom "Flying Dutchman"(詳細はリンク先に)が届いたので、気になっていたロジャー・ゼラズニイの作品、"And I Only Am Escaped to Tell Thee"を最初に読んでみました。
これまで知っていたゼラズニイの作品は壮大で個性的な世界観のSFとファンタジーがほとんどでしたが、この短編は古来からの「さまよえるオランダ人」伝説をほぼ忠実に踏まえた海洋奇譚です。全部で四ページ弱ほど、最後のオチありきといった感じのショートショートながら、なかなか目の付け所が面白いうえ、終わり方もホラーらしくて大変気に入りました。
幽霊船となって終わりなき航海を続ける「さまよえるオランダ人(フライング・ダッチマン)」号、そこからもし脱出を図った船員がいたら…というストーリーです。今回は全体量が短いので、いい加減な上センスない素人翻訳ですがざっと日本語に直してみました。大目に見てくださる方は最後までお付き合いいただければ幸いです。
ロジャー・ゼラズニイ "And I Only Am Escaped to Tell Thee"
まっすぐ頭上で稲妻をほとばしらせる一片の暗雲、滝のように降り注ぐ雨、砲弾の炸裂にも似た爆音。それらは常に彼らの船に付き纏っていた。
ファン・ベルクムはまたも向きを変えた船の上でよろけ、運んでいた荷箱を取り落としかけた。風は彼の周りで荒れ狂い、濡れそぼった服を引き裂く。足元には飛沫を上げる水が渦を巻き、押し寄せてはまた引いていった。高波がひっきりなしに船に打ち付け、マストや帆桁のまわりをぞっとするような緑色の鬼火が踊っている。
はるか頭上からは、周囲を飛び回る悪魔どもが気まぐれにいたぶりの的にした水夫の悲鳴が耳をつんざく。その下の索具の中に絡めとられているのは、雨風にすっかり肉が削ぎおとされた死骸。骨ばった右手が揺らめく緑の光に染まり、合図するかのように揺れ動いていた。
甲板を横切り、彼は荷箱を紐でくくり付ける作業にかかった。どれほどの回数こうした荷箱や樽をあちこちに移し変えたことか? とうの昔に数えることもやめてしまった。一働き終わると、即座にまた別の仕事が言い渡されるのだ…。
合間に手すりの向こうへと目をやる。船べりに来るとき、常に彼は雨にぼやけた水平線の方をうかがい、そして願った―
その点においてファン・ベルクムは異なっていた。他の者たちと違い、彼はわずかながらも希望を抱いていたのだ― ある計画があったから。
…船室から轟く高笑いが船を揺るがす。ファン・ベルクムは身震いした。
船長は今ではたいていラム酒の小樽を供に船室に閉じこもり、聞くところでは悪魔とのカード遊びに興じているとか。あの声を聞く限り、今度の勝負では悪魔が勝ちを収めたのだろう。
積荷の具合を確かめる振りをしつつ、ファン・ベルクムは中に紛れ込ませてあった一つの樽の在り処を探り当てた。それは他のと違って空き樽で、内側には槙皮(※隙間に木の細かい繊維を詰めることによる防水加工)が打ってあり、青い塗料の印で見分けがつくようになっているものだ。
そして背を向け、再び甲板を渡ってゆく。その脇を巨大でこうもりのような羽のある何かがバタバタと飛び去っていき、彼は背を丸めて足取りを早めた。
さらに四つの荷物を運ぶあいだ、彼はそのたびごとにすばやく彼方に目を走らせた…と、あれは?あれは!
左舷前方に船!周囲を狂おしく見渡すが、近くに人の気配はない。
今がその時だ。もし急げば。誰も見ていなければ。
あの樽の所に行き、結わえてあった紐を解いてまたあたりを見回す。相変わらず誰もいなかった。
船は明らかに近づいてきている。向こうの進路、風や潮の流れといったことを見積もるには余裕も手段もない。あるのはただ命のかかった賭け、そして希望。その賭けを選択した彼は希望である樽を抱え、船べりまで転がして海へと投げ入れると自らも後を追って飛び込んだ。
たちまち氷のように冷たく、暗く、荒れた水中に引き込まれた。死に物狂いで手探りしつつなんとか海面に出ようともがく。やっと光が見えたと思うと波にもてあそばれ、投げ上げられ、何度も沈められる度ごとに必死に浮かび上がった。
海がやにわに凪いだのはまさに力尽きる瀬戸際だった。風の音は和らぎ、包む日差しは前よりも明るい。水を掻き分け、彼はいま後にしてきた船がその専属の地獄を引き連れて遠ざかっていくのを認めた。左側にはあの青い印のついた樽がまだ浮き沈みしており、そちらを目指して泳ぐ。
ようやくたどり着いてそれに手を掛け、上半身を水から引き上げることができた。そのまましっかりとしがみついた彼は激しくわななき、あえいだ。海は穏やかになったとはいえ、相変わらずひどく冷たかったのだ。
やっといくらか力が戻って顔を上げる。と、先程目にした船はさらに近づいてきているではないか!
手を振り回し、シャツを裂いて旗をこしらえた。だが腕の感覚がなくなるまでそれらを振り続けても、いっそう接近してきた船に気付かれた気配はない。
このままではじき向こうは通り過ぎてしまうと、彼は旗をもう片方の手に持ち替えて再び振りはじめた。
…次に見上げたとき、目に入ったものは方向転換して自分のほうに向かってくる船の姿だった。もしそれだけの力が残っておりかつ精神的に消耗していなければ、彼は泣き出してしまっていたことだろう。
現にたちまちすさまじい疲労感、そして寒気が襲い掛かるのを感じた。両の目も塩でちくちくするにもかかわらず、いまにもひとりでに閉じてしまいそうだ。しかし樽につかまったままでいられるよう、感覚のなくなった左右の手から目を離すわけにはいかなかった…。
「早く!」 彼は息をついた、「早くしてくれ…」
救命ボートに引き揚げられ毛布で覆われたときすでにほとんど意識を失いかけていた彼は、ボートが船に接舷したときには眠りにおちいっていた。
その日は終日眠り続け、ただ熱いグロッグ(※ラム酒の湯割り)とスープを流し込むあいだ目を覚ましていただけだった。船の者たちと言葉は通じなかった。
翌日の午後になってやっとオランダ語を話せる船員の一人が連れてこられ、彼はその男に自分があの船と乗船契約を交わしてから海に飛び込むまでの一部始終を語ったのだった。
「何てことだ!」
ひとしきりその長い物語を船長や航海士たちに通訳して聞かせたあと、その水夫はいったん間をおいてから口にした。
「なら俺たちがきのう見た、嵐の中を漂う船の幻は本当に『フライング・ダッチマン』号だったんだな…! あの話が事実だったとは…そして未だかつて、あそこから逃げてきた人間なんて君だけだよ!」
ファン・ベルクムは弱々しく笑ってマグの中身を飲み干し、それをかたわらに置いたが、その手からはまだ震えが引いていなかった。水夫は彼の肩を軽く叩いた。
「今は安心して休んでくれ。君はもうあの悪魔の船とは縁が切れて、安全なところにいる―― この船には無事な航海の実績もあるし、腕のいい士官に水夫たちを揃えて数日前に出航したばかりだ。辛かったことは忘れて体力をとりもどすといい。君をこのマリー・セレスト号に歓迎するよ。」
…一八七二年十二月四日早朝、英国のバーク船デイ・グラチア号は、ジブラルタル沖にてすべての帆を張った状態で不可解な進路をとっている一隻のブリッグ船に遭遇した。甲板は無人、舵を取る者もないその船はボストンを出航したマリー・セレスト号であることが判明した…。
船上では驚くべき事柄が明らかになった。一つの救命ボートも失われておらず、何らかの混乱や恐慌状態に見舞われたような形跡も見当たらない。ただ人員だけが一人も残さず消えうせてしまっていたのだ。
後部船室のテーブルには食べかけの朝食がそのままになっており、三つの茶碗の中身はまだ温かく、炊事場の料理用ストーブにも熱が残っていた。変わらず時を刻んでいる船長の懐中時計が寝棚の上の釘にかかっているのも見つかった。
いかなる運命がセレスト号に降りかかったのかは、今日に至るまで謎のままだ…。
(ボウエン「海の伝説集」から)
* * * * * *
船上の人間が全員謎の失踪を遂げたことで知られる「メアリー・セレスト号事件」は様々な創作の題材にもなっていてご存知の方も多いでしょうが、その原因は伝説の幽霊船フライング・ダッチマンだった!となるのがゼラズニイ版というわけです。
ただ、船名が実在の「メアリー(Mary)」から「マリー(Marie)・セレスト号」に変えられているのをはじめ、その他についても一部実際とは異なる脚色がほどこされています。
セレスト号にオランダ人の乗組員が複数名いたなどは本当のようですが、船名の改変をはじめ発見時の船の状況(ボートがそのままだった、食べかけの食事が残っていた等)は、コナン・ドイルの「J・ハバカック・ジェフスンの陳述」のようなフィクションや、のちに流布した尾鰭つきの話にみられる内容をあえて採用したものでしょう(最後のボウエンという人物の「海の伝説集」なる著作も、調べても全く情報が出てこなかったのでゼラズニイの創作かと思われます)。
追記:ドイルの作品については次回の記事で→コナン・ドイルとM・セレスト号事件
上記のことはこちらにもわりと詳しく書いてあります→メアリー・セレスト号事件(Wikipedia)
首尾よく脱出したかにみえたファン・ベルクムでしたが、結局はマリー・セレスト号と共にどうなったのかは想像するしかありません。幽霊船の一部である彼を迎え入れたために、セレスト号の人々も巻き添えになって異次元に取り込まれてしまった…という解釈でいいのかな。
ちなみにもとの伝説でも「フライング・ダッチマン」号の周囲はそこだけ異空間のように嵐に見舞われていることになっていますが、ここでは"its private hell"というちょっと面白い言い回しが使われてます。「専属の地獄」なんて変な訳しか思いつきませんでしたが(汗)
また追記:やたら長いこのタイトル、もともと旧約聖書「ヨブ記」の一節(正確にはAnd I only am escaped alone to tell thee)で、さらにメルヴィルの「白鯨」最終章冒頭にも引用されています。一人海を漂う主人公のところに救助の船が来るというシチュエーションは後者とそっくりなため、一種の孫引きといえるのかもしれませんが←19Cアメ文専攻のくせに忘れていたとは情けない
手持ちの新潮文庫版白鯨では「我ただ一人のがれて汝に告げんとて来れり」と訳されていたのでそれを踏まえて日本語にするなら、aloneを抜かして上記タイトルのような感じでしょうか。
これまで知っていたゼラズニイの作品は壮大で個性的な世界観のSFとファンタジーがほとんどでしたが、この短編は古来からの「さまよえるオランダ人」伝説をほぼ忠実に踏まえた海洋奇譚です。全部で四ページ弱ほど、最後のオチありきといった感じのショートショートながら、なかなか目の付け所が面白いうえ、終わり方もホラーらしくて大変気に入りました。
幽霊船となって終わりなき航海を続ける「さまよえるオランダ人(フライング・ダッチマン)」号、そこからもし脱出を図った船員がいたら…というストーリーです。今回は全体量が短いので、いい加減な上センスない素人翻訳ですがざっと日本語に直してみました。大目に見てくださる方は最後までお付き合いいただければ幸いです。
ロジャー・ゼラズニイ "And I Only Am Escaped to Tell Thee"
まっすぐ頭上で稲妻をほとばしらせる一片の暗雲、滝のように降り注ぐ雨、砲弾の炸裂にも似た爆音。それらは常に彼らの船に付き纏っていた。
ファン・ベルクムはまたも向きを変えた船の上でよろけ、運んでいた荷箱を取り落としかけた。風は彼の周りで荒れ狂い、濡れそぼった服を引き裂く。足元には飛沫を上げる水が渦を巻き、押し寄せてはまた引いていった。高波がひっきりなしに船に打ち付け、マストや帆桁のまわりをぞっとするような緑色の鬼火が踊っている。
はるか頭上からは、周囲を飛び回る悪魔どもが気まぐれにいたぶりの的にした水夫の悲鳴が耳をつんざく。その下の索具の中に絡めとられているのは、雨風にすっかり肉が削ぎおとされた死骸。骨ばった右手が揺らめく緑の光に染まり、合図するかのように揺れ動いていた。
甲板を横切り、彼は荷箱を紐でくくり付ける作業にかかった。どれほどの回数こうした荷箱や樽をあちこちに移し変えたことか? とうの昔に数えることもやめてしまった。一働き終わると、即座にまた別の仕事が言い渡されるのだ…。
合間に手すりの向こうへと目をやる。船べりに来るとき、常に彼は雨にぼやけた水平線の方をうかがい、そして願った―
その点においてファン・ベルクムは異なっていた。他の者たちと違い、彼はわずかながらも希望を抱いていたのだ― ある計画があったから。
…船室から轟く高笑いが船を揺るがす。ファン・ベルクムは身震いした。
船長は今ではたいていラム酒の小樽を供に船室に閉じこもり、聞くところでは悪魔とのカード遊びに興じているとか。あの声を聞く限り、今度の勝負では悪魔が勝ちを収めたのだろう。
積荷の具合を確かめる振りをしつつ、ファン・ベルクムは中に紛れ込ませてあった一つの樽の在り処を探り当てた。それは他のと違って空き樽で、内側には槙皮(※隙間に木の細かい繊維を詰めることによる防水加工)が打ってあり、青い塗料の印で見分けがつくようになっているものだ。
そして背を向け、再び甲板を渡ってゆく。その脇を巨大でこうもりのような羽のある何かがバタバタと飛び去っていき、彼は背を丸めて足取りを早めた。
さらに四つの荷物を運ぶあいだ、彼はそのたびごとにすばやく彼方に目を走らせた…と、あれは?あれは!
左舷前方に船!周囲を狂おしく見渡すが、近くに人の気配はない。
今がその時だ。もし急げば。誰も見ていなければ。
あの樽の所に行き、結わえてあった紐を解いてまたあたりを見回す。相変わらず誰もいなかった。
船は明らかに近づいてきている。向こうの進路、風や潮の流れといったことを見積もるには余裕も手段もない。あるのはただ命のかかった賭け、そして希望。その賭けを選択した彼は希望である樽を抱え、船べりまで転がして海へと投げ入れると自らも後を追って飛び込んだ。
たちまち氷のように冷たく、暗く、荒れた水中に引き込まれた。死に物狂いで手探りしつつなんとか海面に出ようともがく。やっと光が見えたと思うと波にもてあそばれ、投げ上げられ、何度も沈められる度ごとに必死に浮かび上がった。
海がやにわに凪いだのはまさに力尽きる瀬戸際だった。風の音は和らぎ、包む日差しは前よりも明るい。水を掻き分け、彼はいま後にしてきた船がその専属の地獄を引き連れて遠ざかっていくのを認めた。左側にはあの青い印のついた樽がまだ浮き沈みしており、そちらを目指して泳ぐ。
ようやくたどり着いてそれに手を掛け、上半身を水から引き上げることができた。そのまましっかりとしがみついた彼は激しくわななき、あえいだ。海は穏やかになったとはいえ、相変わらずひどく冷たかったのだ。
やっといくらか力が戻って顔を上げる。と、先程目にした船はさらに近づいてきているではないか!
手を振り回し、シャツを裂いて旗をこしらえた。だが腕の感覚がなくなるまでそれらを振り続けても、いっそう接近してきた船に気付かれた気配はない。
このままではじき向こうは通り過ぎてしまうと、彼は旗をもう片方の手に持ち替えて再び振りはじめた。
…次に見上げたとき、目に入ったものは方向転換して自分のほうに向かってくる船の姿だった。もしそれだけの力が残っておりかつ精神的に消耗していなければ、彼は泣き出してしまっていたことだろう。
現にたちまちすさまじい疲労感、そして寒気が襲い掛かるのを感じた。両の目も塩でちくちくするにもかかわらず、いまにもひとりでに閉じてしまいそうだ。しかし樽につかまったままでいられるよう、感覚のなくなった左右の手から目を離すわけにはいかなかった…。
「早く!」 彼は息をついた、「早くしてくれ…」
救命ボートに引き揚げられ毛布で覆われたときすでにほとんど意識を失いかけていた彼は、ボートが船に接舷したときには眠りにおちいっていた。
その日は終日眠り続け、ただ熱いグロッグ(※ラム酒の湯割り)とスープを流し込むあいだ目を覚ましていただけだった。船の者たちと言葉は通じなかった。
翌日の午後になってやっとオランダ語を話せる船員の一人が連れてこられ、彼はその男に自分があの船と乗船契約を交わしてから海に飛び込むまでの一部始終を語ったのだった。
「何てことだ!」
ひとしきりその長い物語を船長や航海士たちに通訳して聞かせたあと、その水夫はいったん間をおいてから口にした。
「なら俺たちがきのう見た、嵐の中を漂う船の幻は本当に『フライング・ダッチマン』号だったんだな…! あの話が事実だったとは…そして未だかつて、あそこから逃げてきた人間なんて君だけだよ!」
ファン・ベルクムは弱々しく笑ってマグの中身を飲み干し、それをかたわらに置いたが、その手からはまだ震えが引いていなかった。水夫は彼の肩を軽く叩いた。
「今は安心して休んでくれ。君はもうあの悪魔の船とは縁が切れて、安全なところにいる―― この船には無事な航海の実績もあるし、腕のいい士官に水夫たちを揃えて数日前に出航したばかりだ。辛かったことは忘れて体力をとりもどすといい。君をこのマリー・セレスト号に歓迎するよ。」
…一八七二年十二月四日早朝、英国のバーク船デイ・グラチア号は、ジブラルタル沖にてすべての帆を張った状態で不可解な進路をとっている一隻のブリッグ船に遭遇した。甲板は無人、舵を取る者もないその船はボストンを出航したマリー・セレスト号であることが判明した…。
船上では驚くべき事柄が明らかになった。一つの救命ボートも失われておらず、何らかの混乱や恐慌状態に見舞われたような形跡も見当たらない。ただ人員だけが一人も残さず消えうせてしまっていたのだ。
後部船室のテーブルには食べかけの朝食がそのままになっており、三つの茶碗の中身はまだ温かく、炊事場の料理用ストーブにも熱が残っていた。変わらず時を刻んでいる船長の懐中時計が寝棚の上の釘にかかっているのも見つかった。
いかなる運命がセレスト号に降りかかったのかは、今日に至るまで謎のままだ…。
(ボウエン「海の伝説集」から)
* * * * * *
船上の人間が全員謎の失踪を遂げたことで知られる「メアリー・セレスト号事件」は様々な創作の題材にもなっていてご存知の方も多いでしょうが、その原因は伝説の幽霊船フライング・ダッチマンだった!となるのがゼラズニイ版というわけです。
ただ、船名が実在の「メアリー(Mary)」から「マリー(Marie)・セレスト号」に変えられているのをはじめ、その他についても一部実際とは異なる脚色がほどこされています。
セレスト号にオランダ人の乗組員が複数名いたなどは本当のようですが、船名の改変をはじめ発見時の船の状況(ボートがそのままだった、食べかけの食事が残っていた等)は、コナン・ドイルの「J・ハバカック・ジェフスンの陳述」のようなフィクションや、のちに流布した尾鰭つきの話にみられる内容をあえて採用したものでしょう(最後のボウエンという人物の「海の伝説集」なる著作も、調べても全く情報が出てこなかったのでゼラズニイの創作かと思われます)。
追記:ドイルの作品については次回の記事で→コナン・ドイルとM・セレスト号事件
上記のことはこちらにもわりと詳しく書いてあります→メアリー・セレスト号事件(Wikipedia)
首尾よく脱出したかにみえたファン・ベルクムでしたが、結局はマリー・セレスト号と共にどうなったのかは想像するしかありません。幽霊船の一部である彼を迎え入れたために、セレスト号の人々も巻き添えになって異次元に取り込まれてしまった…という解釈でいいのかな。
ちなみにもとの伝説でも「フライング・ダッチマン」号の周囲はそこだけ異空間のように嵐に見舞われていることになっていますが、ここでは"its private hell"というちょっと面白い言い回しが使われてます。「専属の地獄」なんて変な訳しか思いつきませんでしたが(汗)
また追記:やたら長いこのタイトル、もともと旧約聖書「ヨブ記」の一節(正確にはAnd I only am escaped alone to tell thee)で、さらにメルヴィルの「白鯨」最終章冒頭にも引用されています。一人海を漂う主人公のところに救助の船が来るというシチュエーションは後者とそっくりなため、一種の孫引きといえるのかもしれませんが←19Cアメ文専攻のくせに忘れていたとは情けない
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