19世紀前半の英国小説に出てくる「島原の乱」(続き)
2014.01.19 22:40|怪奇幻想文学いろいろ|
前回の続き。マリヤットの小説「幽霊船」で、ポルトガル人宣教師のマティアス神父が日本で起きたキリスト教徒たちの反乱について語るくだりです。
ある領主(キリシタン大名)家の内紛に乗じ、日本での勢力拡大を図るオランダ人たちはキリシタンがポルトガル人と結んで国家転覆を企てていると時の"emperor"(ここでは将軍のこと)に讒言しました。すぐさま幕府の討伐軍が差し向けられ、追い詰められたキリシタンの側も結集してそれを迎え撃とうとします。
問題の大名家には父と共にキリシタンになった二人、改宗せず将軍の側で仕えていた他の二人とあわせて四人の息子がいましたが、彼らがそれぞれ幕府軍とキリシタン軍の総大将として敵味方に分かれ戦うことになったわけです。
以下、戦の経過についての原文引用。
…The Christian army amounted to more than 40,000 men, but of this the emperor was not aware, and he sent a force of about 25,000 to conquer and exterminate them. The armies met, and after an obstinate combat (for the Japanese are very brave) the victory was on the part of the Christians, and, with the exception of a few who saved themselves in the boats, the army of the emperor was cut to pieces.
"This victory was the occasion of making more converts, and our army was soon increased to upwards of 50,000 men. On the other hand, the emperor, perceiving that his troops had been destroyed, ordered new levies and raised a force of 150,000 men, giving directions to his generals to give no quarter to the Christians, with the exception of the two young lords who commanded them, whom he wished to secure alive, that he might put them to death by slow torture. All offers of accommodation were refused, and the emperor took the field in person. The armies again met, and on the first day's battle the victory was on the part of the Christians; still they had to lament the loss of one of their generals, who was wounded and taken prisoner, and, no quarter having been given, their loss was severe.
"The second day's combat was fatal to the Christians. Their general was killed; they were overpowered by numbers, and fell to a man. The emperor then attacked the camp in the rear, and put to the sword every old man, woman, and child. On the field of battle, in the camp, and by subsequent torture, more than 60,000 Christians perished. But this was not all; a rigorous search for Christians was made throughout the islands for many years; and they were, when found, put to death by the most cruel torture. It was not until fifteen years ago that Christianity was entirely rooted out of the Japanese empire, and during a persecution of somewhat more than sixteen years, it is supposed that upwards of 400,000 Christians were destroyed; and all this slaughter, my son, was occasioned by the falsehood and avarice of that man who met his just punishment but a few days ago.…
上の内容をまとめるとだいたい以下のような内容です。
...集結したキリスト教徒は四万以上でしたが、彼らの勢力を見くびっていた幕府側の派遣した軍勢はそれに満たない二万五千程度。結果、惨敗を喫した幕府側の兵は船で海に逃れたわずかな者を除いて壊滅させられます。
キリシタン側の勝利によってさらに改宗者が増え、結果彼らの軍は五万に達します。しかし敗北の知らせを受けた幕府側は新しく十五万もの軍勢を募り、相手にいっさいの慈悲は無用、ただ敵の総大将二人だけは拷問でゆっくり死に至らしめるため生かして捕らえるようにという指令のもと将軍自らも戦地に赴いて戦いは再開されました。
開戦一日目では、大将の一人が負傷して捕虜になるという損失はあったもののかろうじて勝利はキリシタンの手に。しかし二日目、ついに数で勝る幕府軍に圧倒されて総崩れとなってしまいます。
キリシタン側に残されたもう一方の総大将も戦死、後方にまわって陣営を襲撃した将軍の手勢によって老若男女六万名以上が虐殺されたのでした。その後各地で見つけ出されて処刑された人々も含めれば、四十万近くのキリシタンが弾圧の犠牲となったのです...
最後のあたり、このようにして日本でキリスト教が根絶されたのは十五年前のことだったとあります(それより古く、秀吉の時代から禁止令が出されていたことはどうやら無視されたようですが)。
島原の乱は1637~8年、いっぽう小説ではこの時点で1650年を少し過ぎたころという設定(冒頭"About the middle of the seventeenth century"という書き出しで始まり、作中の時間経過的におそらくその二、三年後)なので、年代の記述はほぼ正確です。
また、反乱軍が籠城したのが海のそばということ(船で脱出うんぬんから)、最初に派遣された軍勢が大敗したあと組織しなおした二度目の軍勢でようやく勝利したこと、大殺戮で幕を閉じた結末等々もおおむね日本で記録されている史実通りといえるでしょう。
→島原の乱(日本語版Wikipedia)
両軍の人数に関しては諸説あるようですが、↑のウィキと比較すると当たらずとも遠からずといった感じでしょうか。ただ日本で殉教したキリシタンの数が四十万人超というのはいくらなんでも盛りすぎのような!? 将軍自らが戦闘に参加したというのもありえないですしね。
作中の四人兄弟とその父である領主の話に関しても元になった出来事があるのかと調べてみましたが、島原の乱やキリシタン大名がらみではそれに似た史実は見つかりませんでした。まあこのあたりは西洋の名家にもありがちなお家騒動といった感じだし、比較的マリヤットの創作が入っていそうです。
いっぽう、実在した歴代のオランダ商館長で海難事故死した人物はいないか探してみたところ、島原の乱の時にではないもののその翌年に商館長に就任した(乱が起きたときには次席だった)フランソワ・カロンという人物がまさに同じような亡くなり方をしていました。
→フランソワ・カロン
1619年、十九歳で平戸のオランダ商館に下働きとして着任したカロンは、日本や台湾などアジアの各地で長年にわたって重要なポストを務めあげたのち、1673年にヨーロッパに戻る途中の船が沈没して事故死しました。これは小説で語られる商館長がごく若くして来日し、故国に戻るときにはすでに老人だったというのと一致していますし、カロンが彼のモデルとなった可能性はかなり高いように思えます。
マティアス神父の物語では信仰より実利重視のオランダ側が一方的に悪者にされてしまっていますが、日本語に堪能で幕府とも多く関わってきたカロンは日本とオランダとの外交において大きな役割を果たした存在なのは確かです(むろんその分、オランダと敵対していたポルトガルには仇となったわけですが。)
当時の日本の国情を記録したカロンの著作「日本大王国誌」は現代日本語訳も出ていて、Amazon等でも入手可能のようですよ。
しかしトンデモな点は多々あれど、まだ日本が鎖国していた時代であることを考慮に入れると「幽霊船」のこうした記述はそれなりに史実を踏まえており正確なほうだと感じられます。作者のマリヤットはもと英海軍の艦長という立場上、外国の事情に関しては一般人より詳しかった可能性もありそうですが、いったい執筆に際して何を参考にしたのかは興味をひかれるところですね。
ある領主(キリシタン大名)家の内紛に乗じ、日本での勢力拡大を図るオランダ人たちはキリシタンがポルトガル人と結んで国家転覆を企てていると時の"emperor"(ここでは将軍のこと)に讒言しました。すぐさま幕府の討伐軍が差し向けられ、追い詰められたキリシタンの側も結集してそれを迎え撃とうとします。
問題の大名家には父と共にキリシタンになった二人、改宗せず将軍の側で仕えていた他の二人とあわせて四人の息子がいましたが、彼らがそれぞれ幕府軍とキリシタン軍の総大将として敵味方に分かれ戦うことになったわけです。
以下、戦の経過についての原文引用。
…The Christian army amounted to more than 40,000 men, but of this the emperor was not aware, and he sent a force of about 25,000 to conquer and exterminate them. The armies met, and after an obstinate combat (for the Japanese are very brave) the victory was on the part of the Christians, and, with the exception of a few who saved themselves in the boats, the army of the emperor was cut to pieces.
"This victory was the occasion of making more converts, and our army was soon increased to upwards of 50,000 men. On the other hand, the emperor, perceiving that his troops had been destroyed, ordered new levies and raised a force of 150,000 men, giving directions to his generals to give no quarter to the Christians, with the exception of the two young lords who commanded them, whom he wished to secure alive, that he might put them to death by slow torture. All offers of accommodation were refused, and the emperor took the field in person. The armies again met, and on the first day's battle the victory was on the part of the Christians; still they had to lament the loss of one of their generals, who was wounded and taken prisoner, and, no quarter having been given, their loss was severe.
"The second day's combat was fatal to the Christians. Their general was killed; they were overpowered by numbers, and fell to a man. The emperor then attacked the camp in the rear, and put to the sword every old man, woman, and child. On the field of battle, in the camp, and by subsequent torture, more than 60,000 Christians perished. But this was not all; a rigorous search for Christians was made throughout the islands for many years; and they were, when found, put to death by the most cruel torture. It was not until fifteen years ago that Christianity was entirely rooted out of the Japanese empire, and during a persecution of somewhat more than sixteen years, it is supposed that upwards of 400,000 Christians were destroyed; and all this slaughter, my son, was occasioned by the falsehood and avarice of that man who met his just punishment but a few days ago.…
上の内容をまとめるとだいたい以下のような内容です。
...集結したキリスト教徒は四万以上でしたが、彼らの勢力を見くびっていた幕府側の派遣した軍勢はそれに満たない二万五千程度。結果、惨敗を喫した幕府側の兵は船で海に逃れたわずかな者を除いて壊滅させられます。
キリシタン側の勝利によってさらに改宗者が増え、結果彼らの軍は五万に達します。しかし敗北の知らせを受けた幕府側は新しく十五万もの軍勢を募り、相手にいっさいの慈悲は無用、ただ敵の総大将二人だけは拷問でゆっくり死に至らしめるため生かして捕らえるようにという指令のもと将軍自らも戦地に赴いて戦いは再開されました。
開戦一日目では、大将の一人が負傷して捕虜になるという損失はあったもののかろうじて勝利はキリシタンの手に。しかし二日目、ついに数で勝る幕府軍に圧倒されて総崩れとなってしまいます。
キリシタン側に残されたもう一方の総大将も戦死、後方にまわって陣営を襲撃した将軍の手勢によって老若男女六万名以上が虐殺されたのでした。その後各地で見つけ出されて処刑された人々も含めれば、四十万近くのキリシタンが弾圧の犠牲となったのです...
最後のあたり、このようにして日本でキリスト教が根絶されたのは十五年前のことだったとあります(それより古く、秀吉の時代から禁止令が出されていたことはどうやら無視されたようですが)。
島原の乱は1637~8年、いっぽう小説ではこの時点で1650年を少し過ぎたころという設定(冒頭"About the middle of the seventeenth century"という書き出しで始まり、作中の時間経過的におそらくその二、三年後)なので、年代の記述はほぼ正確です。
また、反乱軍が籠城したのが海のそばということ(船で脱出うんぬんから)、最初に派遣された軍勢が大敗したあと組織しなおした二度目の軍勢でようやく勝利したこと、大殺戮で幕を閉じた結末等々もおおむね日本で記録されている史実通りといえるでしょう。
→島原の乱(日本語版Wikipedia)
両軍の人数に関しては諸説あるようですが、↑のウィキと比較すると当たらずとも遠からずといった感じでしょうか。ただ日本で殉教したキリシタンの数が四十万人超というのはいくらなんでも盛りすぎのような!? 将軍自らが戦闘に参加したというのもありえないですしね。
作中の四人兄弟とその父である領主の話に関しても元になった出来事があるのかと調べてみましたが、島原の乱やキリシタン大名がらみではそれに似た史実は見つかりませんでした。まあこのあたりは西洋の名家にもありがちなお家騒動といった感じだし、比較的マリヤットの創作が入っていそうです。
いっぽう、実在した歴代のオランダ商館長で海難事故死した人物はいないか探してみたところ、島原の乱の時にではないもののその翌年に商館長に就任した(乱が起きたときには次席だった)フランソワ・カロンという人物がまさに同じような亡くなり方をしていました。
→フランソワ・カロン
1619年、十九歳で平戸のオランダ商館に下働きとして着任したカロンは、日本や台湾などアジアの各地で長年にわたって重要なポストを務めあげたのち、1673年にヨーロッパに戻る途中の船が沈没して事故死しました。これは小説で語られる商館長がごく若くして来日し、故国に戻るときにはすでに老人だったというのと一致していますし、カロンが彼のモデルとなった可能性はかなり高いように思えます。
マティアス神父の物語では信仰より実利重視のオランダ側が一方的に悪者にされてしまっていますが、日本語に堪能で幕府とも多く関わってきたカロンは日本とオランダとの外交において大きな役割を果たした存在なのは確かです(むろんその分、オランダと敵対していたポルトガルには仇となったわけですが。)
当時の日本の国情を記録したカロンの著作「日本大王国誌」は現代日本語訳も出ていて、Amazon等でも入手可能のようですよ。
しかしトンデモな点は多々あれど、まだ日本が鎖国していた時代であることを考慮に入れると「幽霊船」のこうした記述はそれなりに史実を踏まえており正確なほうだと感じられます。作者のマリヤットはもと英海軍の艦長という立場上、外国の事情に関しては一般人より詳しかった可能性もありそうですが、いったい執筆に際して何を参考にしたのかは興味をひかれるところですね。
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