M・アルブレヒト/チェルニャコフの「見えざる町キーテジ」映像
2014.03.08 14:22|音楽鑑賞(主にオペラ)|
二年前のアムステルダムでの「キーテジ」上演を収録したソフトがようやく発売されました。ブルーレイ・DVD両方で出ています。
「キーテジ」の市販映像としてはカリアリ/ボリショイのプロダクションに続き二つ目となるこのディミトリ・チェルニャコフ演出は、共同制作として今後バルセロナのリセウ劇場(来月)やスカラ座他でも上演予定のものです。
二つを見比べて印象的だったのは、どちらの演出とも登場人物のほとんどを待ち受ける"死"への過程というテーマに焦点を当てた点では共通でも、その手法がまったく異なっていることでした。
特典インタビューによれば「このオペラをおとぎ話ではなく、現代の世界にも通じるリアルさをもって」観客に提示したかったというチェルニャコフは、本来の筋書きにいくつか独自の解釈を加え、各場面初めに幕前のスクリーンに短い文を表示することでそれを説明します。
それらを総合すると、この物語は「なんらかのカタストロフが迫って」おり、その影響で秩序が失われ荒廃のさなかにある世界の出来事という設定だとか(要はフィクションによくある「リアル世紀末」をご想像ください)
大小二つあるキーテジの民やタタール人達といった「登場人物たちが属する集団」は 「その不安な状況の中、めいめいが選択した生き方」として読みかえられています。現実から目をそらそうと飲んだくれて乱痴気騒ぎにふける者(この演出での「小キーテジ」住人)や欲望のまま破壊や略奪行為に走る者(「タタール人」たち)がいる一方、一部の人々は少しでも人間らしく平穏に暮らせる場所を求めてシェルターに隠れ住んでいます。つまり本来の伝説では湖の奥地に隠された都の大キーテジは、ここではそうした人々の築いたシェルターに置き換わっているというわけです。
もとは人里離れた森で鳥や獣に囲まれて育った設定のフェヴローニャにも、「世界を見舞った変化のあとそれまでの生活を捨て、弱者たちを助けて森に暮らすことを選んだ」女性という新たなキャラ付けがされていたり。動物たち(と、台本に書かれているだけで超絶影の薄い兄)のかわり、年取った男女と小さな男の子の三人が彼女の「家族」として出てきます。
こうした終末もの的世界観、また森というより枯れ野原のような冒頭シーンは、時期的に震災後の日本をほのめかしたのか?とも勘ぐってしまったのですが、2001年マリインスキーでの新演出がこのプロダクションのオリジナルらしいので、おそらくはコンセプトもそこから引き継がれたものでしょう。もちろんチェルニャコフはロシア人だし、当時からチェルノブイリとかそういった辺りのことを意識した可能性はありそうですが。
上記の演出はマリインスキーでもまだ現役とのことで、写真を借りてきて比べてみました。
(上)2001年マリインスキー版、(下)2012年ネーデルラントオペラ版。


草が増えてリアルになってますけどw、まあ基本一緒ですね。
↓以下演出をラストまでネタばれしてるので、鑑賞予定の方はご注意ください。
チェルニャコフの解釈は実に容赦なく、古来のキーテジ伝説の背後に潜む惨劇をあばき出してみせます。あくまでシビアなその視点からは奇蹟など起こり得るはずもなく、登場人物と観客双方に突きつけられるのは、圧倒的な暴力の前になすすべもなく滅ぼされるキーテジと虐殺されてゆく住民たちというありのままの現実。
ラスト、湖底で甦ったキーテジで晴れ晴れしく行われるはずのフェヴローニャと王子の結婚式も、すべて孤独に息を引き取ってゆく彼女の幻覚にすぎないかのよう(これはクプファー演出でもそうでしたが)。フェヴローニャが夢見る光景は本当にほのぼのしていて幸せそのものなのですが、結果としてそれが現実のむごさをより一層際立たせることになっています。
暴力や流血の描写がこれまたオペラでは珍しいほどどぎつく(キャストが大量降板したらしいんですがこれが理由かも)、正直背景設定を改変のうえここまでやる必要があったのかというと疑問も残りますが、すでに荒廃しきって信仰にすがる心も失われた世界観というのは現代人にとっては一定の説得力ある解釈かもしれません。
ここでの「キーテジ」の人々にとって、古くは精神的支柱だったであろう信仰や愛国心はもはや実質的な意味を持たず、だからこそ彼らが破滅の訪れを知ったとき、伝説のように街が神の力で救われることを願うでもなく、さっさと自決してしまうのはそれなりに腑に落ちる展開ではあったからです。
同じく救いのないフェヴローニャの最後の場面にしても、彼女が真に望んでいたのはキーテジの栄華ではなく、身近な人々との(普通の世の中なら)ごく平凡な幸せだったのだということが痛いほど伝わってくるようで、フェヴローニャの人間性を実によく表した心を打つ描き方になっていると思えました。
くっきりした音作りに緩急とメリハリの良さが際立つマルク・アルブレヒトの指揮は、舞台上とのケミストリーを絶やすことのない緊張感がラジオで演奏だけ聴いたときよりはるかに効果的でした。歌手陣もハードルの高い演技を見事にこなしているうえ、声楽的にもハイレベルで穴がありません。
主演のスヴェトラーナ・イグナトヴィチは当初予定のソプラノ(オ○○○ス。この人、美人だけどなんだかどぎつくて苦手)の代役としての起用だったようですが、素朴な雰囲気がこの演出の親しみやすいフェヴローニャ像にぴったりで、これはむしろ変更がプラスに働いたのではというぐらい。長いモノローグの場面なども声を駆使していることを感じさせないぐらい自然に、フェヴローニャの純粋な人柄を演じきっています。
フセヴォロド王子役マキシム・アクセノフと、その親衛隊長フョードルのアレクセイ・マルコフ(ここでは主従ではなく友人同士のような関係)は揃って見た目も若々しく、端正で張りのある声で魅力的なのが嬉しいです。
あと特筆すべきは、人間の持つ弱さを凝縮したような、しかしそれゆえきわめて複雑な役どころのグリーシカ・クテルマを演じたジョン・ダスザックの、鋭いキャラクターテノールの声を生かした迫真の演技。演出と相まって、普通の人間でも極限状況に置かれたらああなりかねないという一種のリアリティさえ感じさせるのが効いています…。
キャストチェンジが多かったとはいえ、その他男声陣もウラディミール・ヴァネーエフ(ユーリー公)、ゲンナジー・ベズズーベンコフ(グースリ弾き)、ウラディミール・オグノヴェンコ(ブルンダイ)などマリインスキーでもおなじみの顔ぶれ中心に固めた存在感ある面々が揃ってなかなかの豪華さでした。
(「グースリ弾き」がシンプソンズ風キャラのTシャツにギターを抱えたおじさんなのが妙にツボにはまってしまった)
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「キーテジ」の市販映像としてはカリアリ/ボリショイのプロダクションに続き二つ目となるこのディミトリ・チェルニャコフ演出は、共同制作として今後バルセロナのリセウ劇場(来月)やスカラ座他でも上演予定のものです。
二つを見比べて印象的だったのは、どちらの演出とも登場人物のほとんどを待ち受ける"死"への過程というテーマに焦点を当てた点では共通でも、その手法がまったく異なっていることでした。
特典インタビューによれば「このオペラをおとぎ話ではなく、現代の世界にも通じるリアルさをもって」観客に提示したかったというチェルニャコフは、本来の筋書きにいくつか独自の解釈を加え、各場面初めに幕前のスクリーンに短い文を表示することでそれを説明します。
それらを総合すると、この物語は「なんらかのカタストロフが迫って」おり、その影響で秩序が失われ荒廃のさなかにある世界の出来事という設定だとか(要はフィクションによくある「リアル世紀末」をご想像ください)
大小二つあるキーテジの民やタタール人達といった「登場人物たちが属する集団」は 「その不安な状況の中、めいめいが選択した生き方」として読みかえられています。現実から目をそらそうと飲んだくれて乱痴気騒ぎにふける者(この演出での「小キーテジ」住人)や欲望のまま破壊や略奪行為に走る者(「タタール人」たち)がいる一方、一部の人々は少しでも人間らしく平穏に暮らせる場所を求めてシェルターに隠れ住んでいます。つまり本来の伝説では湖の奥地に隠された都の大キーテジは、ここではそうした人々の築いたシェルターに置き換わっているというわけです。
もとは人里離れた森で鳥や獣に囲まれて育った設定のフェヴローニャにも、「世界を見舞った変化のあとそれまでの生活を捨て、弱者たちを助けて森に暮らすことを選んだ」女性という新たなキャラ付けがされていたり。動物たち(と、台本に書かれているだけで超絶影の薄い兄)のかわり、年取った男女と小さな男の子の三人が彼女の「家族」として出てきます。
こうした終末もの的世界観、また森というより枯れ野原のような冒頭シーンは、時期的に震災後の日本をほのめかしたのか?とも勘ぐってしまったのですが、2001年マリインスキーでの新演出がこのプロダクションのオリジナルらしいので、おそらくはコンセプトもそこから引き継がれたものでしょう。もちろんチェルニャコフはロシア人だし、当時からチェルノブイリとかそういった辺りのことを意識した可能性はありそうですが。
上記の演出はマリインスキーでもまだ現役とのことで、写真を借りてきて比べてみました。
(上)2001年マリインスキー版、(下)2012年ネーデルラントオペラ版。


草が増えてリアルになってますけどw、まあ基本一緒ですね。
↓以下演出をラストまでネタばれしてるので、鑑賞予定の方はご注意ください。
チェルニャコフの解釈は実に容赦なく、古来のキーテジ伝説の背後に潜む惨劇をあばき出してみせます。あくまでシビアなその視点からは奇蹟など起こり得るはずもなく、登場人物と観客双方に突きつけられるのは、圧倒的な暴力の前になすすべもなく滅ぼされるキーテジと虐殺されてゆく住民たちというありのままの現実。
ラスト、湖底で甦ったキーテジで晴れ晴れしく行われるはずのフェヴローニャと王子の結婚式も、すべて孤独に息を引き取ってゆく彼女の幻覚にすぎないかのよう(これはクプファー演出でもそうでしたが)。フェヴローニャが夢見る光景は本当にほのぼのしていて幸せそのものなのですが、結果としてそれが現実のむごさをより一層際立たせることになっています。
暴力や流血の描写がこれまたオペラでは珍しいほどどぎつく(キャストが大量降板したらしいんですがこれが理由かも)、正直背景設定を改変のうえここまでやる必要があったのかというと疑問も残りますが、すでに荒廃しきって信仰にすがる心も失われた世界観というのは現代人にとっては一定の説得力ある解釈かもしれません。
ここでの「キーテジ」の人々にとって、古くは精神的支柱だったであろう信仰や愛国心はもはや実質的な意味を持たず、だからこそ彼らが破滅の訪れを知ったとき、伝説のように街が神の力で救われることを願うでもなく、さっさと自決してしまうのはそれなりに腑に落ちる展開ではあったからです。
同じく救いのないフェヴローニャの最後の場面にしても、彼女が真に望んでいたのはキーテジの栄華ではなく、身近な人々との(普通の世の中なら)ごく平凡な幸せだったのだということが痛いほど伝わってくるようで、フェヴローニャの人間性を実によく表した心を打つ描き方になっていると思えました。
くっきりした音作りに緩急とメリハリの良さが際立つマルク・アルブレヒトの指揮は、舞台上とのケミストリーを絶やすことのない緊張感がラジオで演奏だけ聴いたときよりはるかに効果的でした。歌手陣もハードルの高い演技を見事にこなしているうえ、声楽的にもハイレベルで穴がありません。
主演のスヴェトラーナ・イグナトヴィチは当初予定のソプラノ(オ○○○ス。この人、美人だけどなんだかどぎつくて苦手)の代役としての起用だったようですが、素朴な雰囲気がこの演出の親しみやすいフェヴローニャ像にぴったりで、これはむしろ変更がプラスに働いたのではというぐらい。長いモノローグの場面なども声を駆使していることを感じさせないぐらい自然に、フェヴローニャの純粋な人柄を演じきっています。
フセヴォロド王子役マキシム・アクセノフと、その親衛隊長フョードルのアレクセイ・マルコフ(ここでは主従ではなく友人同士のような関係)は揃って見た目も若々しく、端正で張りのある声で魅力的なのが嬉しいです。
あと特筆すべきは、人間の持つ弱さを凝縮したような、しかしそれゆえきわめて複雑な役どころのグリーシカ・クテルマを演じたジョン・ダスザックの、鋭いキャラクターテノールの声を生かした迫真の演技。演出と相まって、普通の人間でも極限状況に置かれたらああなりかねないという一種のリアリティさえ感じさせるのが効いています…。
キャストチェンジが多かったとはいえ、その他男声陣もウラディミール・ヴァネーエフ(ユーリー公)、ゲンナジー・ベズズーベンコフ(グースリ弾き)、ウラディミール・オグノヴェンコ(ブルンダイ)などマリインスキーでもおなじみの顔ぶれ中心に固めた存在感ある面々が揃ってなかなかの豪華さでした。
(「グースリ弾き」がシンプソンズ風キャラのTシャツにギターを抱えたおじさんなのが妙にツボにはまってしまった)
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