3/15 新国立劇場「死の都」
2014.03.19 22:45|音楽鑑賞(主にオペラ)|
「死の都」はベルギーの古都ブリュージュを舞台に、亡き妻マリーへの想いに支配された主人公パウルが、マリーに生き写しの女性マリエッタとの出会いがきっかけで夢と現実とが交錯する不思議な体験をするという物語。
作曲者コルンゴルトが父ユリウスと共作した台本は、ベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」に基づくものですが、最後の夢と現実の対比という要素、つまり出来事の大半が主人公の夢オチだったとわかる結末はオペラオリジナルです。
オペラとは結末はじめ違いが少なくありませんが、みなぎる陰鬱さが一種の幻想性をかもし出す原作のテイストも好きです。(ついでながら上の表紙にあるローデンバックの肖像画が主人公のイメージにぴったりすぎて怖い。現物はオルセー美術館所蔵とのこと↓)
Lucien Levy-Dhurmer: Portrait de Georges Rodenbach 去年行ったときには見られなかった…。
今回の演出(カスパー・ホルテン)の舞台でもブリュージュの町並みがパウルの部屋の窓から見えるのですが、それが異常な高さと角度から見下ろした光景なのが彼の歪んだ精神世界を象徴しているよう。ストーリーはすべてその部屋の中で展開し、それがパウルの空想(この演出での「夢オチ」は実際の夢というより、彼の異常な心理状態が見せた妄想に近いかと)であることを暗示します。
三幕で平衡を失っていくパウルの精神に生じた亀裂をあらわすように、窓の外を通り過ぎていくはずの祭りの行列が街の背景からにょきにょき顔を出すのはなかなか強烈でした(でもこの場面で何より不気味なのは、神聖な儀式の行列を描写しているはずなのに異様におどろおどろしい音楽そのものに他なりませんが)。
けれどホルテンの演出は、そうやって主人公の内面を心理分析的に見せようとするあまり空回りした感が否めないのでは?というのが正直なところです。
上に書いた事柄についてはわかりやすいし効果も抜群だったのですが、問題は本来一人二役のマリー/マリエッタを、黙役の女優によるマリーと歌手が演じるマリエッタとに分担させたことです。
台本ではパウルの亡妻マリーの出番は、現実においてマリエッタがいったん立ち去り、パウルがオペラのほぼ終盤あたりまで続く夢を見始めるところで幽霊として現れる1シーンしかありませんが、ここではマリエッタの登場以前からマリーがパウルの部屋に存在し、その後もほぼ常に姿を見せ続けています。マリーの幽霊が歌う場面では、マリー役が身ぶりで演技し、それにマリエッタ役のミーガン・ミラーがピットの中から声を当てる方法で処理していました。
しかし私の理解力が足りないのかもしれませんが、始まってからしばらくはどういうことなのかいまいちよく分からず。気になって幕間に新国のサイトにアクセスしてみたところ、特設ブログのホルテンのインタビューに説明がありました。(最初から読んでおけって思われそうですけど、オペラ実演鑑賞のときは事前に演出のネタバレ見るのはなるべく避けたいんです。)
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/blog/?p=253
上記記事によるとマリーが最初から舞台にいるのは、その死を受け入れられないパウルにとって彼女はいまだに生前と変わらない姿で存在し続けているからだとか。
ただこの解釈、私としてはどうも釈然としないんですよねえ。パウルが妄想の中だけでも妻と以前通り幸福な生活を営んでいるなら、わざわざ外の世界でマリーの面影を追い求めたあげくにマリエッタを意識して家に呼ぶこともないだろうと。パウルの喪失感が観客にダイレクトに伝わりにくくなったのでは、彼に共感してほしいといったところで逆効果に思えます。
何よりマリーとマリエッタが外見上瓜二つという設定がこれでは苦しく、パウルが時に二人を同一視して混乱するのはおかしいし、観るほうも先に女優さん演じる"マリー"のイメージを植えつけられてしまうと、それに余りそっくりとは言えないミラーのマリエッタがなんだか気の毒な感じでした。マリーとマリエッタの動かし方によってはもっと納得できたかもしれませんが…。
メイン三人の外国勢は、飛びぬけてパンチのある人はいなかったにしてもそれぞれよく歌って釣り合いが取れていました。
パウルのトルステン・ケルルは、最初のうちセーブ気味だったのか声が飛んでこないときがあったものの、あちこちで歌っている役だけあってペースの配分をよく踏まえ、聴かせどころはしっかり響かせていてさすが。
演出面で損をしていたにもかかわらず、ミラーは陽気ながら内面の暗さをも抱えたマリエッタを好演し(ただ"マリー"としての声は私の席位置の関係かあまりきれいに聴こえてこなかった)、朴訥そうなフランクとピエロの悲哀を漂わせるフリッツの二役を歌い分けたバリトンのアントン・ケレミチェフも生真面目な声質と歌い口がどちらにもよく合っていました。
日本人で固めた脇役も粒揃いで、マリエッタの仲間たちのアンサンブルは歌も見ているのも楽しく出番が少ないのが惜しいくらい。ブリギッタも完全にイメージどおりでした。
前回新国に登場したときの「ルサルカ」が変に生ぬるい印象だったので、指揮のヤロスラフ・キズリンクには実はあまり期待していなかったのですが、今回はそのときよりも躍動感のある音楽作りで好印象。時にはきらびやか、時にはグロテスクな響きをオーケストラから見事に引き出していました。
告白しますと私はホルテンの意図を知らないで見ていたあいだ、「実はマリーは死んでおらず、妻を神聖視するあまり生身の人間として接することができなくなったパウルが勝手に脳内で故人にして、ちょっと似た肉体派のマリエッタに浮気した」とかいう新解釈か?なんて考えていたのでした(さすがにこれではパウルがアレな人すぎる)
作曲者コルンゴルトが父ユリウスと共作した台本は、ベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブリュージュ」に基づくものですが、最後の夢と現実の対比という要素、つまり出来事の大半が主人公の夢オチだったとわかる結末はオペラオリジナルです。
![]() | 死都ブリュージュ (岩波文庫) (1988/03/16) G. ローデンバック 商品詳細を見る |
オペラとは結末はじめ違いが少なくありませんが、みなぎる陰鬱さが一種の幻想性をかもし出す原作のテイストも好きです。(ついでながら上の表紙にあるローデンバックの肖像画が主人公のイメージにぴったりすぎて怖い。現物はオルセー美術館所蔵とのこと↓)
Lucien Levy-Dhurmer: Portrait de Georges Rodenbach 去年行ったときには見られなかった…。
今回の演出(カスパー・ホルテン)の舞台でもブリュージュの町並みがパウルの部屋の窓から見えるのですが、それが異常な高さと角度から見下ろした光景なのが彼の歪んだ精神世界を象徴しているよう。ストーリーはすべてその部屋の中で展開し、それがパウルの空想(この演出での「夢オチ」は実際の夢というより、彼の異常な心理状態が見せた妄想に近いかと)であることを暗示します。
三幕で平衡を失っていくパウルの精神に生じた亀裂をあらわすように、窓の外を通り過ぎていくはずの祭りの行列が街の背景からにょきにょき顔を出すのはなかなか強烈でした(でもこの場面で何より不気味なのは、神聖な儀式の行列を描写しているはずなのに異様におどろおどろしい音楽そのものに他なりませんが)。
けれどホルテンの演出は、そうやって主人公の内面を心理分析的に見せようとするあまり空回りした感が否めないのでは?というのが正直なところです。
上に書いた事柄についてはわかりやすいし効果も抜群だったのですが、問題は本来一人二役のマリー/マリエッタを、黙役の女優によるマリーと歌手が演じるマリエッタとに分担させたことです。
台本ではパウルの亡妻マリーの出番は、現実においてマリエッタがいったん立ち去り、パウルがオペラのほぼ終盤あたりまで続く夢を見始めるところで幽霊として現れる1シーンしかありませんが、ここではマリエッタの登場以前からマリーがパウルの部屋に存在し、その後もほぼ常に姿を見せ続けています。マリーの幽霊が歌う場面では、マリー役が身ぶりで演技し、それにマリエッタ役のミーガン・ミラーがピットの中から声を当てる方法で処理していました。
しかし私の理解力が足りないのかもしれませんが、始まってからしばらくはどういうことなのかいまいちよく分からず。気になって幕間に新国のサイトにアクセスしてみたところ、特設ブログのホルテンのインタビューに説明がありました。(最初から読んでおけって思われそうですけど、オペラ実演鑑賞のときは事前に演出のネタバレ見るのはなるべく避けたいんです。)
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/blog/?p=253
上記記事によるとマリーが最初から舞台にいるのは、その死を受け入れられないパウルにとって彼女はいまだに生前と変わらない姿で存在し続けているからだとか。
ただこの解釈、私としてはどうも釈然としないんですよねえ。パウルが妄想の中だけでも妻と以前通り幸福な生活を営んでいるなら、わざわざ外の世界でマリーの面影を追い求めたあげくにマリエッタを意識して家に呼ぶこともないだろうと。パウルの喪失感が観客にダイレクトに伝わりにくくなったのでは、彼に共感してほしいといったところで逆効果に思えます。
何よりマリーとマリエッタが外見上瓜二つという設定がこれでは苦しく、パウルが時に二人を同一視して混乱するのはおかしいし、観るほうも先に女優さん演じる"マリー"のイメージを植えつけられてしまうと、それに余りそっくりとは言えないミラーのマリエッタがなんだか気の毒な感じでした。マリーとマリエッタの動かし方によってはもっと納得できたかもしれませんが…。
メイン三人の外国勢は、飛びぬけてパンチのある人はいなかったにしてもそれぞれよく歌って釣り合いが取れていました。
パウルのトルステン・ケルルは、最初のうちセーブ気味だったのか声が飛んでこないときがあったものの、あちこちで歌っている役だけあってペースの配分をよく踏まえ、聴かせどころはしっかり響かせていてさすが。
演出面で損をしていたにもかかわらず、ミラーは陽気ながら内面の暗さをも抱えたマリエッタを好演し(ただ"マリー"としての声は私の席位置の関係かあまりきれいに聴こえてこなかった)、朴訥そうなフランクとピエロの悲哀を漂わせるフリッツの二役を歌い分けたバリトンのアントン・ケレミチェフも生真面目な声質と歌い口がどちらにもよく合っていました。
日本人で固めた脇役も粒揃いで、マリエッタの仲間たちのアンサンブルは歌も見ているのも楽しく出番が少ないのが惜しいくらい。ブリギッタも完全にイメージどおりでした。
前回新国に登場したときの「ルサルカ」が変に生ぬるい印象だったので、指揮のヤロスラフ・キズリンクには実はあまり期待していなかったのですが、今回はそのときよりも躍動感のある音楽作りで好印象。時にはきらびやか、時にはグロテスクな響きをオーケストラから見事に引き出していました。
告白しますと私はホルテンの意図を知らないで見ていたあいだ、「実はマリーは死んでおらず、妻を神聖視するあまり生身の人間として接することができなくなったパウルが勝手に脳内で故人にして、ちょっと似た肉体派のマリエッタに浮気した」とかいう新解釈か?なんて考えていたのでした(さすがにこれではパウルがアレな人すぎる)
- 関連記事