Metライブビューイング 「イーゴリ公」
2014.05.04 23:37|音楽鑑賞(主にオペラ)|
最終日に観に行ってからもう三週間以上なのに、すっかりアップするのが遅くなってしまいました。期待外れとかそういうのでは全然なく、その正反対だったんですけど。
先日取り上げたアムステルダムの「キーテジ」と同じディミトリ・チェルニャコフ(今回の表記ではチェルニアコフ)が演出するこの「イーゴリ公」は、一面の真っ赤なケシの花畑に有名な「ポロヴェッツ人の踊り」の曲が流れる予告を見て以来、どんな舞台になるのかずっと楽しみにしていたものでした。
本音を言うと「イーゴリ公」というオペラは、これまで私にとって音楽自体はともかく、物語についてはほとんど興味を持てなかった作品だったのです。場面ごとのつながりが希薄なせいか終始盛り上がりに欠けるし、登場人物にも際立った個性や魅力のようなものは感じられないし。そもそも作曲者ボロディンが決定稿を残さないまま終わってしまった未完の作品ですから、まとまりが悪いのもある程度仕方ないところがあるのかもしれませんが。
ですが作品のそうした不完全さを逆手にとり、テーマも結末も大きく異なる、「異説イーゴリ公」とでも呼べるような新しい版を作り上げたチェルニャコフの手腕には意表をつかれたといってもいいくらいでした。それがドラマとしての元々の弱点を解消したわけではないにせよ、このオペラに付きまとっていたステレオタイプ的なイメージから踏み出しつつ現代に見合った視点を取り入れた今回の演出は評価されてよいと思います(もちろんいつも成功するとは限らないでしょうが)。
「イーゴリ公」の話は歴史上の出来事に基づいており、チェルニャコフも「ルサルカ」の次回予告のときのインタビューでオペラの原作にあたる十二世紀の「イーゴリ軍記」なども読み込んで参考にしたと話していました。
しかし今回の舞台では、セットや衣装は中世ロシアではなくわりと近代を思わせるデザイン。イーゴリは本来なら異民族のポロヴェッツ人との戦いにおもむき、負傷して捕虜になったあと(色々あってから)抑留されていた敵の野営地を脱出して故郷に帰りつくはずですが…、ここでは傷を負うところまでは同じでも、その後の出来事は昏睡状態で生死の境をさまよう彼の幻覚として描かれているのです。つまり予告に登場したあの一面のケシの花も現実の風景ではなかったということ(臨死体験でお花畑が見えるとかいう話があるのと一緒ですよね)。
一方でその間にも戦火は広がり、イーゴリの治めていた町も荒れ果てます。終幕、やっと回復したイーゴリは同時に死の淵であった敵地から辛くもそこに生還し、幻想の世界から現実に引き戻される―というのがチェルニャコフ版のストーリーのよう。
このように舞台が現実と幻想を行き来するのを説明するため、場面によってはかなり強引なカットを施したり、見ていて煩わしいタイプの映像やフラッシュ処理を多用したりと、いささか無理を感じる箇所が少なくなかったのは確かでした。また今回の版では二幕でイーゴリの出番がなく、代わりに彼が不在の地元で起きる混乱を扱った構成になっているのも、その間演出コンセプトの焦点がぼやけてしまうという点では難があります。
ただこうした問題点にもかかわらず、全体としては妙にすんなり納得できてしまったのは(もちろん私個人の意見ですが)、同じ演出家の「キーテジ」を見たばかりだったことが大きいといえます。
話が進むにつれ、この「戦争で荒廃した現実と、平和で美しい幻想の世界との対比」というテーマは「キーテジ」とそっくりなことに思い当たったのですが、二つのオペラがともに中世ロシア時代の異民族との戦いを背景とした作品であることを考えると似ているのは偶然ではないのかもしれません。後者(「イーゴリ公」の花畑、「キーテジ」のフェヴローニャと親しい人たちとの団欒)はともにその戦いの中で傷つき、死に瀕した主人公が夢見る幻の中にしか存在しないという点でも同じですし、ある意味チェルニャコフによるこれらの両演出は対をなすものと解釈できるのではないでしょうか。
従来の版と違って綺麗に締めくくられるわけではないラストにも最初こそびっくりしましたが、それでも「キーテジ」と比べればずっと前向きな希望を感じさせる終わり方で、最後民衆に混じって瓦礫を片付け始めるイーゴリの姿からはチェルニャコフのこの作品に寄せる思いが伝わってくるようでした。「キーテジ」が戦争で滅ぼされた者たちの悲劇なら、この「イーゴリ公」は生き抜いてそこから再生を目指す人々のドラマとして構想されたもののように受け取れたのです。
基本のトーンはシリアスながらも、コメディリリーフの二人組ポポフとオグノヴェンコ(この人チェルニャコフ演出に凄い高確率で出てきますね)の場面などはよい息抜きになっていたし、これもチェルニャコフの舞台に多い食べ物のシーン(←リアルにおいしそう)もちゃんとあって、全体を通して想像以上に楽しめる仕上がり。
歌手陣は佇まいがこの役にはうってつけのイーゴリ公イルダール・アブドラザコフを筆頭に、ガリツキー公のミハイル・ペトレンコ、コンチャク汗のステファン・コツァンと主要な役をバス三人が占めるというレアなケースでしたが、同じスラヴ系のバスでも三者三様の個性があっていい聴き比べができました。
最後の人歌い方が一本調子であんまり好きじゃないんですけど、今回は演出のおかげで後半の出番カットだったし悪くはなかったです。ペトレンコはこういうひねくれた系統のキャラがぴったり。そして何より、この舞台のコンセプトにふさわしい複雑なヒーロー像を歌唱と演技で示したアブドラザコフは大健闘したといえます。
イーゴリの息子ウラジミール役は名前に覚えがあると思ったら、マリインスキー来日のときの演奏会形式パルジファルの題名役だった人。アブドラザコフと親子には見えませんでしたが、ワーグナーよりずっとこちらのほうが合ってました(イーゴリと一緒に帰ってこられなかったということは、あの息子は結局助からなかったんですね…)気品あるディーカとド迫力のラチヴェリシュヴィリの女声二人もパワフルな歌で適役。
ジャナンドレア・ノセダの指揮からは演出を上回るほどのインパクトを受けはしなかったにせよ、これまでと違ったスコアに依りつつドラマを支えるという点で十分な役割を果たしていました。
ところで真っ赤なケシの花が咲き乱れる光景って、あちらの人たちにとってはそれだけで異世界的、幻想的なイメージを抱かせるものなんでしょうか? ケシの原が囲む家に入って魅入られたようになり、ついにはあの世に誘われてしまう男が主人公の「罌粟の香り」という短篇小説(作者はイギリスの女流作家マージョリー・ボウエン)を読んで以来、その読後感がずーっと引っかかって離れないままで。
おそらくギリシャ・ローマ神話ではケシの花が眠りの神ゆかりのものなのが由来かと思いますが、あの鮮やかに赤い花の雰囲気とはなんだか結び付けづらいです。
先日取り上げたアムステルダムの「キーテジ」と同じディミトリ・チェルニャコフ(今回の表記ではチェルニアコフ)が演出するこの「イーゴリ公」は、一面の真っ赤なケシの花畑に有名な「ポロヴェッツ人の踊り」の曲が流れる予告を見て以来、どんな舞台になるのかずっと楽しみにしていたものでした。
本音を言うと「イーゴリ公」というオペラは、これまで私にとって音楽自体はともかく、物語についてはほとんど興味を持てなかった作品だったのです。場面ごとのつながりが希薄なせいか終始盛り上がりに欠けるし、登場人物にも際立った個性や魅力のようなものは感じられないし。そもそも作曲者ボロディンが決定稿を残さないまま終わってしまった未完の作品ですから、まとまりが悪いのもある程度仕方ないところがあるのかもしれませんが。
ですが作品のそうした不完全さを逆手にとり、テーマも結末も大きく異なる、「異説イーゴリ公」とでも呼べるような新しい版を作り上げたチェルニャコフの手腕には意表をつかれたといってもいいくらいでした。それがドラマとしての元々の弱点を解消したわけではないにせよ、このオペラに付きまとっていたステレオタイプ的なイメージから踏み出しつつ現代に見合った視点を取り入れた今回の演出は評価されてよいと思います(もちろんいつも成功するとは限らないでしょうが)。
「イーゴリ公」の話は歴史上の出来事に基づいており、チェルニャコフも「ルサルカ」の次回予告のときのインタビューでオペラの原作にあたる十二世紀の「イーゴリ軍記」なども読み込んで参考にしたと話していました。
しかし今回の舞台では、セットや衣装は中世ロシアではなくわりと近代を思わせるデザイン。イーゴリは本来なら異民族のポロヴェッツ人との戦いにおもむき、負傷して捕虜になったあと(色々あってから)抑留されていた敵の野営地を脱出して故郷に帰りつくはずですが…、ここでは傷を負うところまでは同じでも、その後の出来事は昏睡状態で生死の境をさまよう彼の幻覚として描かれているのです。つまり予告に登場したあの一面のケシの花も現実の風景ではなかったということ(臨死体験でお花畑が見えるとかいう話があるのと一緒ですよね)。
一方でその間にも戦火は広がり、イーゴリの治めていた町も荒れ果てます。終幕、やっと回復したイーゴリは同時に死の淵であった敵地から辛くもそこに生還し、幻想の世界から現実に引き戻される―というのがチェルニャコフ版のストーリーのよう。
このように舞台が現実と幻想を行き来するのを説明するため、場面によってはかなり強引なカットを施したり、見ていて煩わしいタイプの映像やフラッシュ処理を多用したりと、いささか無理を感じる箇所が少なくなかったのは確かでした。また今回の版では二幕でイーゴリの出番がなく、代わりに彼が不在の地元で起きる混乱を扱った構成になっているのも、その間演出コンセプトの焦点がぼやけてしまうという点では難があります。
ただこうした問題点にもかかわらず、全体としては妙にすんなり納得できてしまったのは(もちろん私個人の意見ですが)、同じ演出家の「キーテジ」を見たばかりだったことが大きいといえます。
話が進むにつれ、この「戦争で荒廃した現実と、平和で美しい幻想の世界との対比」というテーマは「キーテジ」とそっくりなことに思い当たったのですが、二つのオペラがともに中世ロシア時代の異民族との戦いを背景とした作品であることを考えると似ているのは偶然ではないのかもしれません。後者(「イーゴリ公」の花畑、「キーテジ」のフェヴローニャと親しい人たちとの団欒)はともにその戦いの中で傷つき、死に瀕した主人公が夢見る幻の中にしか存在しないという点でも同じですし、ある意味チェルニャコフによるこれらの両演出は対をなすものと解釈できるのではないでしょうか。
従来の版と違って綺麗に締めくくられるわけではないラストにも最初こそびっくりしましたが、それでも「キーテジ」と比べればずっと前向きな希望を感じさせる終わり方で、最後民衆に混じって瓦礫を片付け始めるイーゴリの姿からはチェルニャコフのこの作品に寄せる思いが伝わってくるようでした。「キーテジ」が戦争で滅ぼされた者たちの悲劇なら、この「イーゴリ公」は生き抜いてそこから再生を目指す人々のドラマとして構想されたもののように受け取れたのです。
基本のトーンはシリアスながらも、コメディリリーフの二人組ポポフとオグノヴェンコ(この人チェルニャコフ演出に凄い高確率で出てきますね)の場面などはよい息抜きになっていたし、これもチェルニャコフの舞台に多い食べ物のシーン(←リアルにおいしそう)もちゃんとあって、全体を通して想像以上に楽しめる仕上がり。
歌手陣は佇まいがこの役にはうってつけのイーゴリ公イルダール・アブドラザコフを筆頭に、ガリツキー公のミハイル・ペトレンコ、コンチャク汗のステファン・コツァンと主要な役をバス三人が占めるというレアなケースでしたが、同じスラヴ系のバスでも三者三様の個性があっていい聴き比べができました。
最後の人歌い方が一本調子であんまり好きじゃないんですけど、今回は演出のおかげで後半の出番カットだったし悪くはなかったです。ペトレンコはこういうひねくれた系統のキャラがぴったり。そして何より、この舞台のコンセプトにふさわしい複雑なヒーロー像を歌唱と演技で示したアブドラザコフは大健闘したといえます。
イーゴリの息子ウラジミール役は名前に覚えがあると思ったら、マリインスキー来日のときの演奏会形式パルジファルの題名役だった人。アブドラザコフと親子には見えませんでしたが、ワーグナーよりずっとこちらのほうが合ってました(イーゴリと一緒に帰ってこられなかったということは、あの息子は結局助からなかったんですね…)気品あるディーカとド迫力のラチヴェリシュヴィリの女声二人もパワフルな歌で適役。
ジャナンドレア・ノセダの指揮からは演出を上回るほどのインパクトを受けはしなかったにせよ、これまでと違ったスコアに依りつつドラマを支えるという点で十分な役割を果たしていました。
ところで真っ赤なケシの花が咲き乱れる光景って、あちらの人たちにとってはそれだけで異世界的、幻想的なイメージを抱かせるものなんでしょうか? ケシの原が囲む家に入って魅入られたようになり、ついにはあの世に誘われてしまう男が主人公の「罌粟の香り」という短篇小説(作者はイギリスの女流作家マージョリー・ボウエン)を読んで以来、その読後感がずーっと引っかかって離れないままで。
おそらくギリシャ・ローマ神話ではケシの花が眠りの神ゆかりのものなのが由来かと思いますが、あの鮮やかに赤い花の雰囲気とはなんだか結び付けづらいです。
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